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源頼朝ゆかりの地を巡る旅②
三浦一族は、頼朝軍と合流すべく22日に所領を出て23日酒匂川まで来ます。しかし、豪雨による増水のために渡河出来ずにいたところ頼朝軍の敗北を知り、24日に引き返します。
平家方の武将である武蔵国の畠山重忠は、頼朝挙兵の報を受けて相模国に出陣し、24日鎌倉由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦一族と合戦になります。
三浦一族は小坪の峠に300騎、畠山勢は稲瀬川に500騎で対陣します。畠山勢
源頼朝ゆかりの地を巡る旅①
源頼朝(1147-99)は、父・源義朝の正妻由良御前が身ごもり、実家の尾張国愛知郡の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸にて三男として生まれたとされています。
1160年頼朝は、平治の乱で近江国で捕えられ京の六波羅へ送られます。死刑を当然視されますが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより伊豆に配流され、伊豆山権現にて源氏一門を弔い再興の祈願をしていました。
頼朝の監視を任されていたの
毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く②
吉田郡山城を下り、江の川水系多治比川を越えた辺りで振り返ると、山城の中腹にあった『毛利家の家紋』が見えます。
現在の最短ルートである上根峠は、急峻で人馬の通行が難しいため防衛線とし、中郡(三篠川流域)を経る道を選んだようです。
墓所は国司氏歴代の墓とされ、毛利元就・輝元の家老として功労のあった国司右京亮元相の墓もあるそうです。
1540年吉田郡山に侵攻する尼子詮久の大軍に対し毛利元就は、援軍
日清戦争と公衆衛生のゆかりの地を訪ねて
『日清戦争』は、1894年7月25日より翌95年4月17日の間、日本と清国の間で行われた戦争です。「大本営」は、1893年戦時大本営条例により制定された旧日本軍の最高統帥部で、初めは翌年6月5日東京の参謀本部内に設置、同年8月5日に皇居内に移ります。
また当時の『広島』は、東京を起点とする鉄道の西端に広島駅・大型船が運用出来る宇品港がありました。その環境が認められて、山陽鉄道が、陸軍省より広島駅
成田詣【日本橋〜成田山新勝寺】
1632年江戸と行徳(塩田)を結ぶ行徳船が開通します。その後は成田詣へ行く人々を乗せた日本橋小網町から行徳常夜灯まで約12.6㎞を定期船が就航した為、陸路は行徳街道を起点として成田山に向かう近道ルートも出来ました。今回は、少し寄り道・廻り道しながら数回に分けて徒歩で辿ってみました。
今年は、元旦に能登半島で地震が発生し、2日に羽田空港で航空機衝突事故が起きる非常に大変な年初めとなりました。被災し
江川英龍ゆかりの地を訪ねて
江川家は、大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。第36代目当主・江川英龍(1801-55)は、1835年父英毅の死去により伊豆韮山代官として天領の民政に従事します。
代官の身分は、勘定奉行の支配下に置かれた旗本です。年貢の徴収・司法検察等の多忙な業務を限られた手付・手代が補佐し、1836年天保騒動では武蔵・相模への波及を警戒しました。
また、小田原の二宮尊徳を招聘して積極的な農地の
ウィリアム・ウィリス医師
1837年北アイルランドで生まれ、スコットランドのエディンバラ大学で医学を学び、卒業後はロンドンのミドルセックス病院で勤務します。
1862年駐日英国公使館の領事館付医官として来日します。江戸高輪東禅寺の公使館に着任後、6月26日第二次東禅寺事件に遭遇します。
同年9月14日生麦事件に遭遇した際、誰よりも真っ先に現場に向かい、英国人被害者の治療と殺害されたリチャードソンの検死を行います。
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芥川龍之介ゆかりの地を巡る
龍之介は、1892年3月1日築地居留地付近(東京市京橋区入船町8丁目)に牛乳製造販売業を営む、父新原敏三・母フクの長男として生まれます。
生後7か月頃、母フクが精神に異常をきたし、東京市本所区小泉町にある母の実家・芥川家に預けられ伯母フキに養育され、11歳時に母が亡くなります。
翌年、叔父・芥川道章 (フクの実兄)の養子になります。芥川家は、代々徳川家に仕えた奥坊主(御用部屋坊主) の家で、芸
赤穂浪士ゆかりの地を訪ねて
江戸幕府は、毎年正月朝廷に年賀の挨拶をし、朝廷も返礼として勅使を幕府に遣わせていました。1701年4月21日(元禄14年3月14日)は儀礼の最終日で、第5代将軍徳川綱吉が本丸御殿内の白書院で勅使に奉答する予定でした。
当日午前11時半過ぎ、吉良上野介が、本丸御殿大広間から白書院へとつながる松之大廊下を歩いていたところ、浅野内匠頭が上野介の後ろから「この間の遺恨覚えたるか」と声をかけ礼式用の小刀で
二宮金次郎ゆかりの地を訪ねて
二宮金次郎(1787-1856)は、相模国足柄上郡栢山村に百姓の父・二宮利右衛門、母・好の長男として生まれます。家は、当初は豊かでしたが、1791年南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊して家は流失し、田畑は砂礫と化します。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は困窮します。
1797年父が眼病を患います。金治郎は、酒匂川堤防工事の夫役を代り務めますが、年少ゆえ働きが足りない