毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く③
中郡道は、1589年毛利輝元が吉田郡山城から広島までを普請させます。『中山峠』には往時の面影が残っている箇所があります。
五庵城跡は、郭群は南側に三か所の小郭を配し、大手側に当たる東側に堀切を設けます。三篠川の『宮原絶壁』の上に位置しました。
1550年吉川興経は、元就に強制的に隠居させられます。妻子と共に安芸深川に幽閉された後、館を急襲され殺害されました。
『木ノ宗山城跡』は、山頂を中心に東西方向の尾根上に位置します。本城跡の西を除く三方向は小河原川と三篠川により囲まれます。
『妙法寺』は、木ノ宗山城の城主・奥西仲網の菩提寺です。戦火で焼け落ちますが、毛利家により建替えられ寺領も保護されます。
1587年元就から安芸国佐東郡馬木村で15貫の給地を与えられた二宮太郎右衛門が社殿を改築します。後の広島城築城の築城奉行。
永町山城跡は、城と言うより温品川沿いのお碗を伏せた様な形の小山です。この辺りの地名の『温品』は、温科から改称されました。
『大内越峠』は、1541年大内氏が銀山城の武田氏を滅ぼす際、矢賀・中山・尾長3村の境界にある峠を通った事が名称の由来です。
1593年豊臣秀吉が九州名護屋(佐賀県)から大阪へ帰る途中、広島に立ち寄った際、左右に並木松を植えさせた伝説があるそうです。
『猿猴橋』は、1589年木橋として架橋されます。文禄の役のため名護屋城に向かう豊臣秀吉も通ったようです。
『京橋』は、輝元が入城した1591年に木橋として架橋します。城の京口御門から東へ一本筋の道にあることが名付けの由来です。
そして遂に広島城に到着します。
※道順は、不明な点が多く、寄り道・まわり道・迷道もしています。
今回のシリーズは以上で終わりです。最後まで読んで頂き有難うございました😃
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