kirin_melonの社会科見学

日本のジャーナリストです。歴史・古道・イベントなどの情報を少しづつ不定期に発信しています。

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最近の記事

新田義貞公の鎌倉攻め

鎌倉幕府は、楠木正成討伐に膨大な軍資金が必要となります。北条高時は、富裕税の一種である有徳銭の徴収を命令し、元弘3年/正慶2年 (1333年)4月新田荘に金沢出雲介連・黒沼彦四郎が西隣の淵名荘から赴きます。 二人は、6万貫文の軍資金を僅か5日間という期限を設け納入を迫ります。特に黒沼が得宗の権威を笠に着て居丈高な姿勢をとり増長した為、遂に新田義貞は憤激して黒沼を斬り殺し、金沢を幽閉します。 覚悟を決めた義貞は、5月8日卯の刻(午前6時ごろ)新田荘にある生品明神社で僅か15

    • エヘンエヘン坂本龍馬③

      文久3年(1863年)8月13日孝明天皇の神武天皇陵参拝、攘夷親征の詔勅が発せられます。14日吉村寅太郎ら攘夷派浪士約40名(天誅組)が先鋒となるべく、伏見から淀川を下り海路で堺に16日上陸し大和に向かいます。 しかし、孝明天皇は幕府による攘夷を求め、8月18日『八月十八日の政変』が起きます。長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み京都の政情は一変し、公武合体派が再び実権を握ります。 これにより、天誅組は政変により一転して逆賊とされ幕府軍の追討

      • エヘンエヘン坂本龍馬②

        文久2年(1862年)3月24日土佐を出発した坂本龍馬と沢村惣之丞は、25日に梼原に到着します。その夜は梼原の勤王の志士『那須俊平・信吾父子』の家に泊まり、信吾が招いた同志と倒幕の談義を重ね合います。 また、意気投合して酒杯を交わし和歌を詠み合います。龍馬が『春くれて 五月まつまの ほととぎす 初音をしのべ 深山津野里』と詠めば、信吾は『西と東に引き分けられて 合わにゃ分からんふすまの絵』と詠みます。 翌26日未明に龍馬と沢村は、俊平・信吾父子の道案内により宮野々番所を抜

        • エヘンエヘン坂本龍馬①

          龍馬は、1836年1月3日土佐国土佐郡上街本町一丁目の土佐藩郷士・坂本直足と妻・幸の間に二男として生まれます。家族には他に、22歳年上の兄(権平)、3人の姉 (千鶴・栄・乙女)がいました。 龍馬が、10歳の時に実母・幸が病気で亡くなります。姉・乙女は、書道・和歌などを教えたり、夜中に起こして厠に連れて行き夜尿症を克服させるなど、積極的に母親代わりを務めました。 また、龍馬は水泳が好きで、夏ともなれば鏡川でよく泳ぎました。時折、乙女姉さんと月の瀬橋から小舟に乗り、浦戸湾口に

          毛利元就ゆかりの地を巡る旅

          『郡山城』は、可愛川(江の川)・多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する山城です。川内国の六波羅評定衆・毛利時親が、1333年鎌倉幕府滅亡後に隠居した後、36年南北朝の争乱で下向し築城したとされています。 毛利元就(1497-1571)は、安芸の国人領主・毛利弘元、正室(福原広俊の娘)との間に次男として誕生します。場所は、生母の実家である鈴尾城東側の谷中腹にある福原氏居館跡と言われています。 1500年幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれ、父・弘元は隠居を決意します。嫡男の

          毛利元就ゆかりの地を巡る旅

          源頼朝ゆかりの地を巡る旅②

          三浦一族は、頼朝軍と合流すべく22日に所領を出て23日酒匂川まで来ます。しかし、豪雨による増水のために渡河出来ずにいたところ頼朝軍の敗北を知り、24日に引き返します。 平家方の武将である武蔵国の畠山重忠は、頼朝挙兵の報を受けて相模国に出陣し、24日鎌倉由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦一族と合戦になります。 三浦一族は小坪の峠に300騎、畠山勢は稲瀬川に500騎で対陣します。畠山勢は郎従50余人が梟首されて退却し、三浦一族は数人の死者を出しながらも本拠地の三浦

          源頼朝ゆかりの地を巡る旅②

          源頼朝ゆかりの地を巡る旅①

          源頼朝(1147-99)は、父・源義朝の正妻由良御前が身ごもり、実家の尾張国愛知郡の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸にて三男として生まれたとされています。 1160年頼朝は、平治の乱で近江国で捕えられ京の六波羅へ送られます。死刑を当然視されますが、平清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより伊豆に配流され、伊豆山権現にて源氏一門を弔い再興の祈願をしていました。 頼朝の監視を任されていたのが伊東祐親です。上洛中の工藤祐経の伊東荘を奪った伊豆国伊東の豪族でしたが、東国に

          源頼朝ゆかりの地を巡る旅①

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く③

          中郡道は、1589年毛利輝元が吉田郡山城から広島までを普請させます。『中山峠』には往時の面影が残っている箇所があります。 五庵城跡は、郭群は南側に三か所の小郭を配し、大手側に当たる東側に堀切を設けます。三篠川の『宮原絶壁』の上に位置しました。 1550年吉川興経は、元就に強制的に隠居させられます。妻子と共に安芸深川に幽閉された後、館を急襲され殺害されました。 『木ノ宗山城跡』は、山頂を中心に東西方向の尾根上に位置します。本城跡の西を除く三方向は小河原川と三篠川により囲ま

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く③

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く②

          吉田郡山城を下り、江の川水系多治比川を越えた辺りで振り返ると、山城の中腹にあった『毛利家の家紋』が見えます。 現在の最短ルートである上根峠は、急峻で人馬の通行が難しいため防衛線とし、中郡(三篠川流域)を経る道を選んだようです。 墓所は国司氏歴代の墓とされ、毛利元就・輝元の家老として功労のあった国司右京亮元相の墓もあるそうです。 1540年吉田郡山に侵攻する尼子詮久の大軍に対し毛利元就は、援軍を大内氏に要請し両方から尼子軍を攻撃しました。 尼子軍武将・湯原弥二郎宗綱は、

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く②

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く①

          『吉田郡山城』は、安芸国の戦国大名毛利氏の居城でした。場所は、可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地(現広島県安芸高田市)の郡山に位置しました。 築城初期は、砦のような小規模な城でしたが、六ヶ国を支配する太守となる第12代当主『毛利元就』の勢力拡大と共に拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となります。 また、元就の孫『毛利輝元』の頃には石垣や瓦葺きを使用し近代的な城郭へと変貌します。見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられて、三層三階の天守があったと言われます。 し

          毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く①

          日清戦争と公衆衛生のゆかりの地を訪ねて

          『日清戦争』は、1894年7月25日より翌95年4月17日の間、日本と清国の間で行われた戦争です。「大本営」は、1893年戦時大本営条例により制定された旧日本軍の最高統帥部で、初めは翌年6月5日東京の参謀本部内に設置、同年8月5日に皇居内に移ります。 また当時の『広島』は、東京を起点とする鉄道の西端に広島駅・大型船が運用出来る宇品港がありました。その環境が認められて、山陽鉄道が、陸軍省より広島駅から宇品港までを結ぶ宇品線を委託され、僅か17日の突貫工事により8月21日より輸

          日清戦争と公衆衛生のゆかりの地を訪ねて

          成田詣【日本橋〜成田山新勝寺】

          1632年江戸と行徳(塩田)を結ぶ行徳船が開通します。その後は成田詣へ行く人々を乗せた日本橋小網町から行徳常夜灯まで約12.6㎞を定期船が就航した為、陸路は行徳街道を起点として成田山に向かう近道ルートも出来ました。今回は、少し寄り道・廻り道しながら数回に分けて徒歩で辿ってみました。

          成田詣【日本橋〜成田山新勝寺】

          終戦からサンフランシスコ平和条約までの道のり 下

          第23回総選挙で日本社会党が比較第一党となり、1947年5月24日片山内閣が誕生します。社会主義政策の炭鉱国家管理法を国会に提出した結果、反発した炭鉱主側が政界工作します。 臨時石炭鉱業管理法が、同年12月20日公布されます。しかし、炭鉱主側に配慮した時限立法で国家管理とは程遠く政権運営にも行き詰り、翌1948年3月10日片山内閣は総辞職します。 同日片山内閣副総理だった芦田均が、内閣総理大臣に就任します。しかし、『政権のたらい回し』と厳しく批判された上、昭和電工事件で総

          終戦からサンフランシスコ平和条約までの道のり 下

          終戦からサンフランシスコ平和条約までの道のり 上

          1945年8月10日大本営地下壕において阿南惟幾陸軍大臣が陸軍省幹部を集めます。前日に行われた御前会議において、ポツダム宣言受諾を昭和天皇が聖断された事を伝えました。 日本政府は、1945年8月15日正午ポツダム宣言を受諾した事を国民に伝える目的で、昭和天皇が宮内で終戦詔書を読み上げられ、肉声を録音した玉音盤をラジオにて放送します。 GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のダグラス・マッカーサー総司令官は、同年8月30日厚木飛行場に到着します。サングラス姿にコーンパイプを咥

          終戦からサンフランシスコ平和条約までの道のり 上

          江川英龍ゆかりの地を訪ねて

          江川家は、大和源氏の系統で鎌倉時代以来の歴史を誇る家柄です。第36代目当主・江川英龍(1801-55)は、1835年父英毅の死去により伊豆韮山代官として天領の民政に従事します。 代官の身分は、勘定奉行の支配下に置かれた旗本です。年貢の徴収・司法検察等の多忙な業務を限られた手付・手代が補佐し、1836年天保騒動では武蔵・相模への波及を警戒しました。 また、小田原の二宮尊徳を招聘して積極的な農地の改良・倹約を実施します。 一方で、殖産の為に貸付・飢饉の際の施しも行い、領民の信

          江川英龍ゆかりの地を訪ねて

          銚子〜江戸 しょうゆ水運ルートを巡る旅

          『醤油』は、小麦・大豆を麹菌で発酵させ塩水を仕込み作ります。1621年新川通開削から開始した利根川東遷事業により、銚子・関宿・新川・小名木川を通る大動脈が1654年完成し、高瀬船での水運が盛んになって行きます。江戸時代中期には銚子・野田が醤油の二大醸造地となり、佐原のような舟運の中継地でも醸造します。 利根川運河は、利根川と江戸川を結ぶ約8.5kmの運河です。関宿の江戸川流頭部に行くまでに浅瀬が出来たり、距離も長かったため1890年運河が完成します。

          銚子〜江戸 しょうゆ水運ルートを巡る旅