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源頼朝ゆかりの地を巡る旅②



三浦一族は、頼朝軍と合流すべく22日に所領を出て23日酒匂川まで来ます。しかし、豪雨による増水のために渡河出来ずにいたところ頼朝軍の敗北を知り、24日に引き返します。

酒匂川


平家方の武将である武蔵国の畠山重忠は、頼朝挙兵の報を受けて相模国に出陣し、24日鎌倉由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦一族と合戦になります。

由比ヶ浜


三浦一族は小坪の峠に300騎、畠山勢は稲瀬川に500騎で対陣します。畠山勢は郎従50余人が梟首されて退却し、三浦一族は数人の死者を出しながらも本拠地の三浦にたどり着きました。

稲瀬川


しかし、畠山重忠は、由比ヶ浜での会稽の恥をすすがんがため三浦一族を再度襲います。河越重頼・江戸重長が数千騎の武士団を率いて合流し、26日相模国三浦郡の衣笠城を攻撃します。

衣笠城跡


先の合戦で消耗していた三浦氏は夜になって衣笠城を放棄して脱出します。27日城は秩父軍により攻め落とされ、城に残った89歳の三浦大介義明は外孫・畠山重忠らに討たれます。

三浦義明廟所(三浦義明の墓)


父・義明と泣く泣く分かれた三浦義澄らは、頼朝軍と合流するべく船で安房国へ向かいます。この際、27日に土肥の岩浦から出航した北条時政・北条義時らと海上で出会い合流します。

浦賀水道


頼朝軍は、伊豆国真鶴岬から脱出し安房国猟島に8月29日上陸します。竜島の村人達は歓迎して世話を焼き、頼朝は丸御厨を本拠とする在地領主・安西景益に9月1日手紙を送ります。

源頼朝上陸地


9月3日頼朝は、上総国の上総広常の元へと出立して途上の民家に泊まります。平氏方の長狭常伴は、その宿所の襲撃を計画しますが、事前に察知した三浦義澄に討たれます。

一戦場古戦場


9月4日安西景益は、頼朝からの手紙に従い宿泊所に参じます。その際、頼朝に『手柄を狙う連中が沢山いる。安易に上総広常の元へ行かず迎えに来させた方が良い』と進言します。

平松城跡


9月5日頼朝は、上総広常及び千葉常胤へ参上を要請する使者を送り洲崎神社へ参拝します。 さらに神領を寄進し、神助により海上を安全に渡ることができた報賽の意を表します。

洲崎神社


丸御厨は、源義朝が息子頼朝の昇進を願い伊勢に寄進したと言われる土地です。9月11日頼朝は、代々源氏の家人である丸五郎信俊を案内人として当御厨を感慨深く巡検します。

丸本郷


頼朝軍は、13日安房国を出て上総から下総に向かいます。下総では、千葉常胤の孫成胤が結城浜の戦いに勝利し、千葉一族は藤原親政を生虜とし17日頼朝軍と下総国府でと合流します。

千葉常胤銅像(亥鼻公園)


上総広常は、19日隅田川辺に布陣する頼朝の元に約2万騎を率いて参上します。しかし、頼朝は喜ぶどころか、逆に遅参した広常を咎めたためその器量に感じて広常は和順します。

平廣常顕彰碑


一旦、頼朝軍は下総国鷺沼の宿所に逗留して兵を整えます。頼朝の元には石橋山で分散した輩などが続々と参向し、10月1日には阿野全成と兄弟の中で最初の合流を果たします。

鷺沼城址公園


隅田川は、武蔵国・下総国の境いに流れています。武蔵国秩父一族の江戸重長は、頼朝が使者を出すもなかなか参陣せず、10月2日頼朝軍は小船を並べた浮き橋を作り隅田川を渡ります。

隅田宿跡


4日これに驚いた江戸重長は、畠山重忠・河越重頼と共に頼朝に帰伏します。翌日重長は頼朝から武蔵の在庁官人や諸郡司を統率して国の諸雑事を沙汰する権限を与えられます。

江戸太郎重長公像




…滝野川・板橋・府中を経て、ついに10月6日鎌倉に入ります。四神相応・六浦道沿いの地である大倉に拠点を定めて、後に鎌倉殿の御所として発展を遂げることとなります。

大蔵幕府跡




今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊

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