![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106670386/rectangle_large_type_2_814910bdaca0629a77ffcb6b99725b76.jpg?width=1200)
二宮金次郎ゆかりの地を訪ねて
二宮金次郎(1787-1856)は、相模国足柄上郡栢山村に百姓の父・二宮利右衛門、母・好の長男として生まれます。家は、当初は豊かでしたが、1791年南関東を襲った暴風で酒匂川の坂口の堤が決壊して家は流失し、田畑は砂礫と化します。開墾に従事して田畑は数年で復旧したが、借財を抱えて家計は困窮します。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106645894/picture_pc_2ff3ad5444d75e1d13238eaa8c0efb4c.jpg?width=1200)
1797年父が眼病を患います。金治郎は、酒匂川堤防工事の夫役を代り務めますが、年少ゆえ働きが足りないと憂い、夜に草鞋を作って配布して献じました。1800年父は、病気が悪化して亡くなり、金治郎が朝は早起きして久野山に薪とり、夜は草鞋作りをして一家4人の生計をささえます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106645835/picture_pc_244198613babd793f5fbdb6660a4965f.jpg?width=1200)
さらに不幸が続き、1802年貧困の中で母が亡くなります。まだ幼い2人の弟は母の実家に預け、金治郎は伯父・萬兵衛の家に身を寄せることになります。しかしこの年にまたも酒匂川が氾濫し、金治郎の土地は水害に襲われ、すべて流出してしまいます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106646269/picture_pc_5254c7ae6719ba3a9c402de545b7ad76.jpg?width=1200)
一家の再興を目指す金治郎は、叔父の家で昼は農業に励み身を粉にして働き、夜は遅くまで勉学に励みます。しかし、叔父の萬兵衛は、金治郎が夜に読書をするのを「燈油の無駄使い」として嫌いました。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106646376/picture_pc_b3a987f3c60473bcaee61c2d9574c996.jpg?width=1200)
そこで金次郎は、1803年わけてもらった五勺程の油菜の種を蒔いて、翌年の春七升程の菜種を収穫します。隣村の油屋嘉右衛門の店にいって灯油にかえてもらい、気兼ねなく夜間の勉学に備えました。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106647627/picture_pc_845b360183146ae1d1f45169f3a86e8d.jpg?width=1200)
他にも金次郎は、酒匂川の大洪水で用水堀に捨てられている苗を植え、1米俵余の収穫を得ます。これらの経験から小さな事でも精を出して勤めていけば、大きな事でも成しとげることができる「積小為大」の真理を見い出しました。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106646505/picture_pc_45f808d283faec34a842c8e425caa950.jpg?width=1200)
1804年叔父萬兵衛の家を離れ、同村の親族・岡部伊助方に寄宿し余耕の五俵を、翌年親戚で名主の二宮七左衛門方に寄宿し余耕の20俵を得ます。1806年家に戻り生家の再興に着手して、家を修復・質入田地の一部を買い戻し・田畑を小作に出すなどして収入の増加を図ります。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106672076/picture_pc_c510362394ce81ca85734bba74ffd477.jpg?width=1200)
1808年母の実家・川久保家が貧窮すると資金援助し、翌年には二宮総本家伊右衛門跡の再興を宣言し基金を立ち上げます。その頃、小田原藩で1,200石取の家老をしている服部十郎兵衛が、親族の助言により金治郎に服部家の家政の建て直しを依頼します。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106672278/picture_pc_eb23f9cdb1d2c97887871f3fb7339dec.jpg?width=1200)
金次郎は、五年計画の節約で救うことを約束します。1814年服部家の財務を整理して千両の負債を償却し、余剰金300両を贈ったが、自らは一銭の報酬も受け取らず評判になり、小田原藩内で名前が知られるようになります。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106674024/picture_pc_143833acaf2aeb3b44e1d7b7f74d129e.jpg?width=1200)
1816年最初の妻を娶りますが、19年妻が離別を申し出たので離縁し、翌年34歳の金治郎は16 歳のなみと再婚します。 同年大久保忠真公が民間の建議を求めた際、金治郎は貢米領収桝の改正を建言し採用されます。また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こします。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106674818/picture_pc_3a059c4d3a80a67d83380ea622ca0a2d.jpg?width=1200)
1821年金次郎は、小田原藩主の分家・宇津家の旗本知行所であった下野国芳賀郡桜町が荒廃しており再興救済を命じられます。23年桜町に移住して再建に着手し、報徳仕法により31年再建を成し遂げますが、村人らに反感を持たれた為、成田山で断食修行を行います。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106676078/picture_pc_45ee384656a59e163d769b8ea132639d.jpg?width=1200)
1836年金次郎は、重病の忠真公より小田原に呼ばれ功績を賞されると共に、飢饉にある小田原の救済を命じられます。特に駿河・相模・伊豆の三州の救済は緊急を要するということで金千両を与えられ、小田原家臣と協議し蔵米を放出します。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106677069/picture_pc_0b0e69450093754d300889836e38a9df.jpg?width=1200)
1838年石川氏の下館の所領を復興し、40年伊豆の代官江川氏の招きを受けて、田方郡多田弥次右衛門家を再興します。 また同年小田原曽比の収穫率の悪い湿田を良田にするため掘られた『報徳堀』が完成します。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106678715/picture_pc_41114671682998aaf678a91c0a55ae34.jpg?width=1200)
1844年日光山領の仕法を命じられ、翌年下野真岡の代官山内氏の属吏となって、真岡に移住します。日光神領を回って日光奉行の配下で仕法を施していましたが、3度目の病を発して、1856年下野国今市村の報徳役所にてお亡くなりになられます。
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/106679431/picture_pc_bd0b1f4367c0ce33e49d688c619993cb.jpg?width=1200)
…過去の記録を参考にして無駄のない収支を定める「分度」、分度により余剰となったお金を将来のために貯めたり、他者に譲る 「推譲」を基礎とする復興策で多くの農村を救済されました。
今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?