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毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く②




吉田郡山城を下り、江の川水系多治比川を越えた辺りで振り返ると、山城の中腹にあった『毛利家の家紋』が見えます。

多治比川

現在の最短ルートである上根峠は、急峻で人馬の通行が難しいため防衛線とし、中郡(三篠川流域)を経る道を選んだようです。

吉田豊栄線

墓所は国司氏歴代の墓とされ、毛利元就・輝元の家老として功労のあった国司右京亮元相の墓もあるそうです。

国司氏墓所付近

1540年吉田郡山に侵攻する尼子詮久の大軍に対し毛利元就は、援軍を大内氏に要請し両方から尼子軍を攻撃しました。

池之内古戦場

尼子軍武将・湯原弥二郎宗綱は、逃げ遅れて深田に馬を乗り入れ、進退の自由を失っているところを打ち取られたと伝わる場所です。

湯原弥二郎(宗綱)腹切岩

お堂の真下にある坂・長田方面から吉田に通ずる旧道には茶屋があったそうです。通行人はお参りして清水を飲んだとされてます。

ひしね神さん

峠を下ると、これから先は平坦な道になります。戸島川は、北に向かって流れて江の川に合流し日本海に流入します。

戸島川

有坂・見坂川は北に向かって流れており旧戸島川上流域でしたが、瀬戸内海に流入する三篠川が河川争奪し、谷中分水界が出来ます。

分水界泣き別れの碑

『向原』が、三篠川の最上流となり広島城の建築資材、その後には薪・年貢等の舟運の川港町として栄えたようです。

向原

1566年ついに尼子氏は、毛利氏に降伏します。義久・倫久・秀久の三兄弟は、長田の円明寺に幽閉され20年間過ごしたようです。

尼子三兄弟ゆかりの墓付近

『井原』には、毛利氏の家臣井原氏の居城である鍋谷城があります。神ノ倉山から西に派生した尾根の標高312m地点のようです。

井原

毛利氏重臣の市川経好は、1557年行政の手腕が認められて山口奉行に就任し、防長経略後に高嶺城に入ったそうです。

順教寺(毛利氏重臣 / 市川経好居館跡)

『轟の瀬』は、三篠川の舟運の難所の一つであったようです。「岩多くして水激しく鳴る」と言われた絶景だったそうです。

轟の瀬

1690年中継ぎの湊『久保浜』が開設されます。米鉄紙問屋、米炭酒などの瓦屋根の蔵が建っていたようです。

久保浜湊跡



※まわり道・寄り道・迷道しています。



次回に続きます。最後まで読んで頂き有難うございました😃

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