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毛利輝元ゆかりの地 郡山城〜中郡道〜広島城を歩く①
『吉田郡山城』は、安芸国の戦国大名毛利氏の居城でした。場所は、可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地(現広島県安芸高田市)の郡山に位置しました。
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築城初期は、砦のような小規模な城でしたが、六ヶ国を支配する太守となる第12代当主『毛利元就』の勢力拡大と共に拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となります。
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また、元就の孫『毛利輝元』の頃には石垣や瓦葺きを使用し近代的な城郭へと変貌します。見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられて、三層三階の天守があったと言われます。
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しかし、山間部の山城は、政務・商業に手狭となり始めます。輝元は、海上交易路である瀬戸内の水運を生かした城下町の形成が可能な平野へ拠点を移す事を考え始めます。
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1588年輝元は、豊臣秀吉の招きに応じて小早川隆景や吉川広家らと上洛します。大坂城や聚楽第を訪れ近世城郭の重要性を痛感し、新しい城を造ることを決意したようです。
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輝元は、翌年2月太田川下流域を検地し、「最も広い島地」の五箇村に築城を決めます。4月築城が開始され、1590年末に堀・城塁が竣工し、翌年1月輝元は入城します。
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1592年4月豊臣秀吉が立ち寄って城内を見物します。翌年に石垣が完成し、1599年全工事が完了し落成します。なお『広島』という名はこの頃に付けられたと言われてます。
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…次回は、毛利輝元が吉田郡山城から広島までの人の往来や資材の運搬に適した最短のルートを在地領主らに命じて造らせた『中郡道』を実際に歩いてみたいと思います。
今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊
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