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日清戦争と公衆衛生のゆかりの地を訪ねて




『日清戦争』は、1894年7月25日より翌95年4月17日の間、日本と清国の間で行われた戦争です。「大本営」は、1893年戦時大本営条例により制定された旧日本軍の最高統帥部で、初めは翌年6月5日東京の参謀本部内に設置、同年8月5日に皇居内に移ります。

皇居


また当時の『広島』は、東京を起点とする鉄道の西端に広島駅・大型船が運用出来る宇品港がありました。その環境が認められて、山陽鉄道が、陸軍省より広島駅から宇品港までを結ぶ宇品線を委託され、僅か17日の突貫工事により8月21日より輸送を開始します。

段原南第五公園


そして遂に、大本営は同年9月13日前線に向かう兵站基地として宮中から広島に移転します。明治天皇は、広島城内にあった第五師団司令部の建物に2日後の9月15日には移動して指揮を執られ、行在所としての役割を果たします。

広島大本営跡




また、首都機能移転に併せて仮設の国会議事堂も設置されます。こちらも設計から竣工まで約20日間の突貫工事で、木材電柱まで転用し地業及び基礎を省いた掘立造の中で、10月18日第七回帝国議会が開催され、臨時軍事予算費などが組まれます。

広島臨時帝国議会仮議事堂跡碑




この時期の『広島』には、日本の立法・行政・軍事の最高機関が一時的に集積して、臨時的に首都の役割を果たします。これは明治維新以降から現在までで、首都機能が東京から離れる唯一の事例となりました。

広島城


…こうした日本国民の一致団結した迅速な行動により日清戦争は終結に向かいます。しかし、戦地では伝染病が流行しており野戦衛生長官・石黒忠悳は、西南戦争で戦傷病者を輸送する和歌山丸・東海丸の船内でコレラが発生して死者が続出した事案を思い出します。

横須賀市 官修墓地


石黒は、翌1995年1月20日帰還する兵士を検疫するべきという建議書を政府に提出します。同年3月30日臨時陸軍検疫部事務局長に抜擢された『後藤新平』が指揮を執り、下関市彦島・大阪市桜島・広島市似島の3箇所に検疫所を設置する事になります。

似島後藤新平像


宇品港沖合い約3kmにある『似島』は、大量に帰還する兵士の検疫を想定して、土地を借り上げ埋め立てられます。その後、後藤の設計に基づき、事務所・消毒部・停留舎・火葬場・汚物焼却場・兵舎・倉庫・炊事場などの建設を開始します。

似島


さらに後藤が指揮中、同年4月20日講和条約が批准され一刻を争う状況になります。僅か2ヶ月の突貫工事で、5月30日検疫所を完成させて翌日には開所します。6月7日に北里柴三郎博士が新しい熱気消毒用機器である蒸気式消毒罐の実験のために訪れたようです。

臨時陸軍似島検疫所跡


帰還した感染していない兵士は、「未消毒桟橋」から上陸→20分消毒風呂→30分休憩→消毒の終わった被服・物品を受け取り→「帰郷(既消毒)桟橋」から故郷へ帰還します。一方、感染者は停留舎に隔離し経過を観察、治癒が確認出来たら上陸を許可されます。

旧陸軍既消毒桟橋跡



しかし、伝染病の上陸は完全に防げません。1895年1月大本営参謀総長・有栖川宮熾仁親王が腸チフスで死去され、同年3月から11月の間広島県内で3,910人(死者2,957人)、市内1,308人のコレラ患者が発生し、従軍看護婦4人も罹患しお亡くなりになられます。

救援のために水を運ぶ婦人の像


『広島』は、もともと太田川下流域の三角州に形成された街です。これから軍都として発展していくには、第五師団司令部が置かれた広島城や陸軍の兵站拠点となった宇品港への上水、広島市内に蔓延する伝染病を撲滅のためにも近代水道が必要不可欠となります。

太田川水系京橋川



しかし、莫大な費用が必要なため、同年11月「明治天皇の勅令」により国営工事で広島軍用水道布設という異例の形で上水道建設が決定されます。併せて広島市民水道も接続する形で、1896年5月1日同日起工し、1898年8月12日同日竣工となります。

広島市牛田浄水場旧緩速ろ過池





…時は流れて2021年5月13日、広島市中区基町のサッカースタジアム建設予定地(中央公園)で、水道創設期の水道管が出土したそうです。



今回の記事は以上です。最後まで読んで頂きありがとうございました😊


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