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認知させるための発信はクリエイティブなのか?

ネット上でやっている活動を広く知っていただくためにはそれ相応のPV数が必要です。
noteの場合、多くの人の目に留めてもらうには次に挙げる方法が効果的でした。

①他人の記事を引用する(いわゆる「#note感想文」)
②note公式タグを取り入れる
③公式・私設問わずnoteコンテストに参加する

①についてはよくコングラをいただくこともあって「なかなかのブルーオーシャンだなぁ」とずっと思っています。しかしながら、結果的に引用された方にとって不本意な形になることもしばしば…
前の私であればビビっと来たnoteをそのまま貼り付けてあーだこーだ持論を展開していましたが、最近はいつ何が起こるか分からないので貼りたくてもグッとこらえて書くようになりました。
②は最近覚えたやり方です。公式推薦タグを付けるとnote公式が自動でマガジン追加してくれることがあるのを知りました。
反応が良いのは③です。私設企画は①の手法で参加意思を表明しているので他のnoterさんとの交流が生まれたり思わぬ記事に刺激をもらったりすることもあります。公式コンテストについては言わずもがな「物書きとしての実績作り」として参加しています。別にこれは何も悪いことでありませんし、そういう活動している人なら尚更頭によぎるであろう当たり前の感情ですからね。

note朗読にしろ、この文章にしろ、私はnoteで披露しているスキルを駆使して外部からお金をいただいている身です。だからといって、需要がある「よろしくない案件」に手を出そうとは微塵も思いません。

最近Twitterでとあるデマが話題となっています。ここで注目してほしいのはデマの拡散方法です。

・情報商材で仕入れたであろうテンプレを使用
・デマを本当のように啓蒙することで媒体のアルゴリズムを動かす(SEO対策)
・結果、サジェスト汚染が広がる

これ、カルトの基本的なやり方と似ているんですよね。

いわゆるエセ科学やツイフェミ系はアルゴリズム的に自分の声を大きくさせ、集団間の憎悪や社会的不安を煽るだけ煽って世論操作を行うんです。
これで対価を得る人は「憎悪クリエイター」と呼ばれるそうです。

Youtube案件に長く携わっていると、コンサル界隈のトレンドが何となく分かってくるようになるんですね。仮にエビデンスが不足しているものが流行ったとしても、クライアントは我々に具現化を求めているわけですから無から作ることを迫られます。
そうなってしまうと、クリエイターとしてのプライドは腐るばかりか基本的な情報リテラシーを自らかなぐり捨てる行為に等しいんですよね。もしエビデンスが不足しているテーマでやってくれと依頼されたらモデルケースの現状と反応はもちろん調べますし入念なエビデンス探しもします。ライターであれば基本中の基本ですよね。
ですがそれらは、これから出す情報に関する責任を負うということでもあるんです。

「あなたは己を宣伝するために機会を利用している」と思う方もいるでしょう。はっきり言います。そのとおりです。
私が身を置いているのは「認知してもらえないと仕事が来ない」世界です。
仕事を乞う以前の問題として、まずは私がやれることを知っていただかないと話になりません。物を書く上で必要なネタを豊富にしないとすぐに困窮するという、それはそれは終わりが見えない下準備を常にしておく必要があります。

だから私はもっといろんな世界を見たいし、いろんな人の話を伺いたい。
知的好奇心を刺激して、その体験を自作小説に活かしたい。
人生経験を積んで、より深みのある読み表現を追求したい。
今抱えている問題を専門家に教えを乞うて、今の仕事につなげたい。

純粋に学んだことをアウトプットする。
皆様に恥ずかしくないようにするのが「認知させるための発信」。
それが私のnoteです。

虹倉家の家計を支えてくれる心優しい方を募集しています。 文章と朗読で最大限の恩返しをさせていただきます。