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なぜ我が子を殺したのか? 『ルポ虐待: 大阪二児置き去り死事件』と『子宮に沈める』の感想
大阪2児餓死事件
被疑者は三重県四日市市に生まれた。両親の離婚などで中学生時代は家出を何度も繰り返していた。この頃、被疑者の父が、高校スポーツの指導者としてニュースの特集に出たことがあり、その当時中学生だった被疑者に対して、福澤朗が家に帰るよう促したことがある。2006年12月、当時大学生だった男性(その後大学を中途退学し就職する)と結婚。2007年5月、20歳になった直後に第1子の長女を出産。2008年10月に第2子の長男を出産し、2009年5月に離婚した。離婚は借金と自らの不倫が原因だったが、離婚を決める家族会議で「借金はしっかり返す」「家族には甘えません」「しっかり働きます」などの誓約書を書かされ、22歳で幼い2児を抱えるひとり親は養育費もない状態で家族を頼れない状況となり、児童扶養手当も子ども手当も受給しなかった。この被疑者もまた幼少期に実母からネグレクトを受けていたうえ、中学生で輪姦体験での性被害もあり解離性障害の傾向もあったという。公的機関に1度子どもを預ける相談をしたが実施には至らなかった。
母親は離婚後、大阪市西区のマンション(母親の勤務先である風俗店が賃借していた物件、投資用ワンルームマンション)に引っ越したが、子供の世話をしなくなっていた。この時子供を残し、わずかな食料を置き交際相手と過ごすようになり長期間家を空けることもあった。
2010年6月9日頃、居間の扉に粘着テープを張った上に玄関に鍵をかけて2児を自宅に閉じ込めて放置し、同月下旬ごろに餓死させた。7月29日、勤務先の上司から「異臭がする」との連絡を受け、約50日ぶりに帰宅した際に子供の死亡を確認した。死亡を確認した母親は「子供たちほったらかしで地元に帰ったんだ。それから怖くなって帰ってなかったの。今日1ヶ月ぶりに帰ったら、当然の結果だった」と上司にメールを送信するも、その後はそのまま交際相手と遊びに出かけてホテルに宿泊し、翌7月30日に逮捕されるまで過ごしていた。
子宮に沈める
上記の事件を映画化したのが、『子宮に沈める』である。
定点カメラを使って撮影されていて、まるで他人のホームビデオを覗き見ているような現実味を感じた。
登場人物の顔を中心に映さない様は、まるで盗撮映像を見ているかのよう。また、台詞や説明の描写が少なく、観客は目の前の状況を汲み取っていく事で、画面外の展開も理解する。
最初は丁寧にロールキャベツを調理していた母が、次第に壊れていく様を描いている。
正直、見ていて気持ちの良いものではなく、むしろ、不快感や悲壮感を浴びる映画。
単純に言えば、毒親が我が子二人を殺す話。
娘に対して大声を張り上げている様とか、子供が起きてるのにセックスに明け暮れるとか、自分の母親と重なる部分があって、感情的フラッシュバックが起き、胸が苦しくなった。
最初は綺麗で素敵な家だったのに、どんどん散らかって、ゴミ屋敷になっていく。うちの実家と同じ。
母親はというと、汚い家も泣き叫ぶ子供もほったらかして、ただただ自分の快楽に溺れる日々。
娘が大好きだったオムライスも作らなくなり、冷凍食品らしきチャーハンを出してる。あまつさえ、子供の前で煙草を吸う。
――ああ、もう、何もかも重なる。
一歳の弟はすぐに亡くなり、長女も瀕死の状態。そんな時、母親は帰ってきて、無表情で風呂に沈めた。
ここはちょっと事実と違うけど、結果は同じ。
そして、まるでロールキャベツを巻くかのように、2人の死体をシートに包んで終わり。
この映画だけ見ると、母親は罪を感じている描写があるけど、実際は罪悪感が薄い。上の引用にもあるけど、その後も男と遊んでるんだから。
二人の子供が死んだ罪は、母親にだけあるのではない。元旦那も、後に出来た彼氏にも、行政にもある。
この映画を見た観客は、『どうしたらあの親子を助けられたのか』と、深く考える機会を与えられる。
【緒方貴臣(監督)】
この映画の基となった大阪の事件から13年、映画の公開から10年が経ちました。
その間、国の施策として様々な虐待防止対策、子育て支援が行われ、この4月には子ども家庭庁も発足しました。
子どもや育児を取り巻く環境はまだ十分とは言えませんが、児童虐待が家族間だけの問題ではなく、社会の問題という認識はかなり広がってきたように感じています。
しかし今もなお1週間に1人のペースで、虐待によって子どもが命を落としています。
コロナ禍では虐待が増えたとも言われています。
それは危機下では社会的立場の弱い者へ皺寄せがいくためです。
私たちのすぐ近くに映画の「親子」がいるかもしれない。
またその「親子」に自分たちがなる(なった)かもしれない。
この映画には、解決策は描かれていません。
そもそもこれらの問題に模範解答のような解決策はありませんが、どうしたら「親子」が、助けられたのか
映画を通じて、考えて頂けたら嬉しいです。
真実は、この事件を追ったルポルタージュで学べる。
ルポ虐待: 大阪二児置き去り死事件
2010年夏、3歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢。子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた……。なぜ幼い二人は命を落とさなければならなかったのか。それは母親一人の罪なのか。事件の経緯を追いかけ、母親の人生をたどることから、幼児虐待のメカニズムを分析する。現代の奈落に落ちた母子の悲劇をとおして、女性の貧困を問う渾身のルポルタージュ。
『愛する我が子』が『邪魔者』になっていく――
母親は我が子を約50日放置して餓死させた上、その死を確認した後も、男を呼び出してホテルで性行為に及んでいる。彼女に罪の意識はあるのか、気になるところだ。
この母親には、解離性障害の疑いがあった。
解離とは、意識や記憶などに関する感覚をまとめる能力が一時的に失われた状態です。この状態では、意識、記憶、思考、感情、知覚、行動、身体イメージなどが分断されて感じられます。例えば、特定の場面や時間の記憶が抜け落ちたり(健忘=けんぼう)、過酷な記憶や感情が突然目の前の現実のようによみがえって体験したり(フラッシュバック)、自分の身体から抜け出して離れた場所から自分の身体を見ている感じに陥ったり(体外離脱体験)します。こうした症状が深刻で、日常の生活に支障をきたすような状態を解離性障害といいます。
実は同じような症状がある。
私は複雑性PTSDで、記憶喪失やフラッシュバックといった症状に悩まされている。そのせいで新しい記憶が定着しにくく、日常生活に支障をきたす。
彼女は育児のストレスから、精神を病んでしまったのだろうか。
事件の真相を追っていく。
著者は近隣住民への取材をしていた。その中で、こんな言葉が出てくる。
「深夜十二時頃から、ベランダ越しに夜中じゅう泣き続ける子どもたちの声を聞いていた。(中略)誰かが通報するんじゃないかと思っていました」
これは、「傍観者効果」と呼ばれるものだ。この心理について、有名な事件を取り上げる。
キティ・ジェノヴィーズ事件は、1964年にニューヨークで起こった婦女殺人事件である。この事件がきっかけとなり、傍観者効果が提唱された。社会心理学を学ぶ際には、必ず触れられる有名なエピソードである。
この事件では、深夜に自宅アパート前でキティ・ジェノヴィーズ(1935-1964年)が暴漢に襲われた際、彼女の叫び声で付近の住民38人が事件に気づき目撃していたにもかかわらず、誰一人警察に通報せず助けにも入らなかったというものである(ただし深夜だったので「女性が襲われている現場」を目撃したわけではない住民も含まれている可能性がある)。結局、暴漢がその後二度現場に戻り、彼女を傷害・強姦したにもかかわらずその間誰も助けには来ず、彼女は死亡してしまい、当時のマスコミは都会人の冷淡さとしてこの事件を大々的に報道した。
なお犯人は逮捕前にも多数の強姦と二件の強姦殺人を犯しており、裁判で当時の心境を問われた際に「あいつ(目撃者)はすぐ窓を締めて寝るだろうと思ったが、その通りだった」と述べるなど、経験則として傍観者心理を理解していた
母親は離婚後、風俗嬢になっていく。理由は「子供に学資保険を掛けたいから」
店の主任は彼女の為に、寮としてマンションの一室を貸す。そこで、二人はセックスをした。理由は二人にしか分からないが、上司から情事を望まれれば、断れなかったのではないだろうか。
それから子供の遺体が発見されるまで、母親は一度もゴミを捨てなかった。包丁さえなかった事から、料理をしていなかった事が分かる。本当に彼女は、子供の為に仕事をしていたのだろうか。
「誰かに助けてもらおうとは思いませんでしたか」という検察の問いかけに対し、彼女はこう答えている。
思いませんでした。誰も助けてくれないと思っていました。助けてくれそうな人は、思いつきませんでした。
彼女は同僚へホストクラブへ誘われた事をキッカケに、ホストにハマっている。
ホストの家やホテルで長時間過ごすようになり、朝方、子供達にご飯を与える為に帰る生活へと変わっていた。
要は、ネグレクトだ。自分の子供より、ホストを優先するようになっていた。
心理的虐待および身体的虐待の一種でもあり、「自らの実子への無視」「特に自立性や自救能力が低く、幼児や低年齢児童の養育を著しく怠ること」を指す場合が多い。具体的には「食事や衣服を定期的に供与しない」「排泄物や廃棄物の始末を適切に行わない」「長時間の保護放棄」などがあり、しばしば虐待を伴う。その結果、子供は健全な心身の発育を妨げられ、最悪の場合は死に至ることもある。軽度のネグレクトでは表面的には分かりづらく周囲は気付きにくいが、実際には軽度のネグレクトの方が多く身近で起こっている。
ネグレクトを引き起こす要因として、周囲の環境に追い込まれ、社会福祉から溢れてしまったが故にそのような行動をしてしまうといった周囲の環境に原因がある場合も多い。
因みにこの間も、彼女は自分の父親とやり取りをしている。子供と公園に行っている様子を写メールで送り、あたかも健全な育児をしているかのように振舞った。その様子を、父親も鵜呑みにしていた。
この件について、父親はこう語っている。
お父さんにも迷惑をかけたと気づいて、助けてと言ったら助けてやろうと思っていました。教育的な考えもあって、放っておきました
果たして、彼女は"お父さんにも迷惑をかけた"のだろうか。私も育児をしているが、子供の存在を迷惑に感じた事はない。
因みに、この父親は二度の離婚を経験していて、三人の子供を育てるシングルファーザーだ。
彼もしんどい思いをしながら子育てをしていた。その様子は後述。
話を近隣住民の件に戻そう。実は、児童相談所へ通報した者がいた。
「子供を放置して仕事をしている人がいるのではないか」という通報を受け、時間帯を変えながら何度もインターホンを押すが、住民からの応答は無かった。とすれば、「子供を家にほったらかしたまま、しばらく帰ってない保護者がいる」と推察できるはず。なのに、子ども相談センターの副所長は、こう発言した。
想像できませんでした
恐らく、本当に想像できなかったんだろう。この事件を機に、こういった事例の子供達が一人でも多く救われる事を望む。
因みに、私も同じ家庭環境に育っている。親が風俗嬢で、男の家に行ったまま何日も帰ってこない。そんな事などざらにあった。だから多分、私やこの事件のような家庭環境に居る子は、見えていないだけでもっと沢山いるはずだ。それを救うのが福祉であり、近隣住民の役目なのではないだろうか。きっとそれが、社会を形成するって事だと思う。
しばらく上記のような酷い環境で育てられた後、次第に風呂すら入れなくなった。
新聞報道によれば、水道使用量が0になっていたとのこと。お風呂や着替え、オムツを替えるといった事をしていない証拠。
完全に、気持ちが子供からホストに向いていた。だが、自分を良く見せる為なのか、いくつかの写真を撮っていた。その写真に写る子供達は、魂が抜けたかのように無表情で、絶望している様子だったという。また、腕や足が痩せ細り、危険な状態にあった。
その写真を見た検察は、「この母親が小さい時と同じだ」という趣旨の発言をしている。
つまり、彼女の母親もまた、虐待を受けて育った身なのだ。これは彼女だけの事例ではなく、虐待で有罪判決を受けた親の殆どが、幼少期に虐待の被害を受けている。
子供を虐待したとして有罪判決を受けた親ら25人のうち、72%に当たる18人が自身の子供時代に虐待を受けていたことが30日、理化学研究所の調査で分かった。本人が精神的な問題を抱えるケースや、子供に健康や発達の問題があって子育てが難しい環境にあった例も目立った。
こうした経験や環境が虐待に直結するわけではないが、調査チームリーダーで精神科医の黒田公美さんは「防止のために問題を抱えた親たちの背景を理解し、有効な支援策を検討する必要がある」と訴えている。
彼女は楽しそうな写真をSNSに投稿している。例えば、髪形を変えたりプリクラを撮ったなど。そういった様子は書き込むも、「恋人に50万要求されている」などといった文言は、SNSに登場しない。
彼女は男から多額の金銭を要求され、育児放棄をしてしまうほど精神的に追い詰められていたのに、それを相談しなかった。言葉にするのは楽しそうな様子だけで、辛い日常はネットに上げない。
正直、その気持ちも分からなくはない。
私も複雑性PTSDの症状が酷かった時期は、周囲に助けを求めるという発想がなかった。特に、まだ親と同居して虐待を受けている最中は、「どうせ大人に言っても助けてくれない」と思って、ずっと黙っていた。それがどんどん、自分の精神を追い詰める事になっていくのだが――
それから後、法廷での弁護士のやり取りで、彼女はこう供述している。
子どものことが思い浮かんでも、考えるのを避けるような状態でした
しばらく経った頃。彼女の元に、上司から電話が来る。寮の管理人から、「異臭がする」という電話があったので、部屋を見せてほしいという内容だった。それを受けて彼女は「片付ける」と返してマンションへ戻るも、玄関の前まで行って、引き返している。その後は男の家に向かった。そこで、泣いていたという。
彼女がその上司へ送ったメールがこれだ。
本当に大切だった。命よりも大切だった。それなのに亡くしてしまった
彼女の言葉は真実なのだろうか。大切にしていたら、子供をぞんざいに扱うだろか。
彼女は上記のメールを送信後、男とホテルでセックスしている。
これが、我が子を亡くした親のする事であろうか。少なくとも、罪悪感にさいなまれていたら、出来ないのではないか。
母親の幼少期
彼女の父親がある日、出かけていた時の事。忘れ物を取りに家へ戻ったところ、妻が男と布団で寝ていた。それに激しいショックを受け、朝まで修羅場を過ごした後、また出かけて戻ってくると、妻と子供は居なくなっていた。
それから、自分からは一切連絡を取らなかったという。
しばらくして、娘の芽衣(事件の加害者)さんから電話がかかってくる。「ママが帰ってこない」と。
その時、妻と子は実家の離れに暮らしていた。父親は、当時の様子をこう語る。
「子どもたちの髪は油ぎってベトベトで、服も着替えていませんでした。芽衣は死んだ魚のような目をしていました。精気がなくなって。普通の子どもとは思えない。放っておいたらだめになると思いました」
この言葉は、芽衣さんが育児放棄をした様と重なる部分がある。
父親は離婚後、芽衣さんが通う英語塾の先生と再婚する。そして、その女性には娘が一人いた。芽衣さんはこの事について、弁護士からの質問に、こう答えた。
「あなたと、その女性との関係は?」
「良くなかったと思います。その人は自分の子どもだけを育てていました。寝るときはその子だけと一緒に寝て、外出する時はその子だけを連れて行きました。顔見知りの女の人が家にいるような感じでした」
これは差別であり、心理的虐待であると言えるだろう。自分だけ他の子と待遇が違えば、劣等感など、負の感情を持つ事になる。それが自尊心を傷つけ、人格形成に多少なり影響するのではないだろうか。
結局、この女性との結婚生活も一年半で終わっている。それからの父親は、複数の女性と恋愛関係を結び、時には娘三人を連れて旅行へも行ったという。
また、妹二人の世話を、芽衣さんにやらせており、妹達にとっての母親代わりとなっていた。
芽衣さんは、一番甘えたい時期に、親へ甘える事ができなかったのだ。
父親の離婚後、小五の時に、実母と再開している。父親が居ない時に電話がかかってきて、食事や買い物を楽しんだ。しかし、再婚して子供が二人出来ている事を知り、ショックを受ける。
芽衣さんが中学生になった時は、手首に包帯を巻いて、リストカットを仄めかした事もあるそうだ。そして、薬物を大量を飲んだと言うメールが着た事もあったという。つまり、実母は精神が不安定だったのだ。
因みに、実母は再婚後も浮気をしていた。
法廷の証人尋問で芽衣さんは、こう語っている。
お父さんに育児放棄があったと言われましたが、なかったと思います。
中学生の芽衣さんは、よく集団で暴行を受けていたという。
それから非行仲間とつるむようになり、コロコロと恋人を変えたり、時には友達の恋人も寝取った。また、男性から求められるとすぐに肉体関係を結び、時には援助交際のような体験もしている。
それについて、著者はこう語った。
ティーンエイジャーが誰彼となく性関係を持つのは、愛情飢餓だ。私が出会った、ある十代の少女は、「性的な関係になったその時だけは、寂しさを忘れられる」と口にした。
芽衣さんは公判で、集団レイプの被害を告白している。そしてレイプされた後に、大量の服薬をして病院へ運ばれている。この時の記憶は殆ど残っていなかったそうだ。
また、彼女は自分を良く見せる為の嘘をよくついた。それがバレると、彼女はその場から逃げたという。
恋人を寝取った件などで仲間内での揉め事が起きると、飛んで別の非行集団の元へと身を移していた。
この本によれば、これは解離の病理によるものだという。
これについて、クリニックのサイトから引用する。
解離性健忘
強い心的ストレスをきっかけに、自分に起こった出来事の記憶をなくし、想起が不可能になった状態のことを言います。多くは数日のうちに記憶が戻りますが、ときには長期にわたって健忘が持続している場合もあります。
解離性とん走
自分が誰かという感覚(アイデンティティ)が失われ、突然家庭や職場などの日常的な場所から失踪して新しい生活を始めていたり、ふいに帰ってきたりする状態のことを言います。失踪している間の自分の行動についての記憶はありません。
私は複雑性PTSDで、同じような症状があるので分かる。強いストレスに晒された時、どう対処していいか分からず、『逃避』という本能的な反応をするしかない。
その後、高校生になった芽衣さんは、仲間と一緒に誘拐窃盗事件を起こし、少年院に入っている。そこで鑑別の際に、「解離性の人格障害の疑い」と言われていた。しかし、父親は精神科に通わせるなどの治療をしなかった。
もしこの時に通院などの手段を取っていれば、芽衣さんや後に産まれる子供達も、助かったかもしれない。
卒業後、芽衣さんは割烹料理屋に就職。そこで、照夫さん(仮名。被害者の父親)と出会う。この二人が交際してからの様子を、非行仲間の先輩はこう語る。
普通になっていました。旦那さんが全然普通の人なので、影響されたのかなあと思った。
それから芽衣さんは娘のあおいちゃんを出産。その時の事について、こう証言している。
抱っこしているとき、私があおいを抱いているんですけれど、何かわからないけど、何かに私自身が抱かれている感じがしました
この言葉について、鑑定を担当した人はこう取り上げた。
「芽衣さんは、自分をあおいちゃんに重ねている可能性があった」というのだ。それもまた、子どもたちを置き去りにした時、わが子を一目から隠し通したことに深くつながっていく。誰からも放置されているわが子が受け入れられない。つまり、誰からも放置されていた幼い頃の自分自身を直視できないのだ。
離婚
2人目の子となる息子を出産。だが、生まれて間もなく、人間関係が悪くなって、ママ友サークルから抜けている。
また、結婚式の二次会に来ていた男性と、照夫さんに黙って連絡を取るようになる。
彼女は、理由のない浮気をしていたのだ。
照夫さんに問いただされ、関係を断つように言われるも、後に浮気相手へ「好きだ」とメールを送っている。
しばらくして、約束を破らない芽衣さんに痺れを切らした照夫さんが、お互いの親を呼んで家族会議を行った。その末、離婚して、子供は芽衣さんが引き取ることになった。しかし、問題はここだけじゃない。
養育費や、父親との面会をどうするかといった、子どもの権利や安全についての話し合いは一切なかった。
(中略)
裁判長は次のように発言している。
「被告人が離婚して子供らを引き取ることが決まった際、子供らの将来を第一に考えた話し合いが行われたとはみられず、このことが、本件の被害を招いた遠因であるということもでき、被告一人を避難するのはいささか酷である」
三人暮らしをしてから二か月後、「マンションの通路で子供が一人で泣いている」との通報が警察にあった。その時、母親は不在。後に、芽衣さんと警察は連絡を取り合う。
警察は不自然な点はないとして、親子を家に帰した。もっとも翌三日、児童相談所に「将来育児放棄(ネグレクト)等に発展する可能性がある」として文書通告した。
"将来"ではなく、今現在ネグレクトが起きているとは、警察も思わなかったみたいだ。
児童相談所は芽衣さん宅を訪れたり、複数回電話をかけるも、応答が無いので、この件に関わる事を辞めている。
それから芽衣さんは、もう警察などと関わりたくないからか、出掛ける度に扉にガムテープをし、南京錠をかけて、子供達が外に出れないようにした。
芽衣さんは、孤独な子どもたちを見ることがつらかったと裁判で繰り返し語る。自分をあおいちゃんに重ね、周囲に関わる大人がいない、あおいちゃんの状況にいたたまれず、その姿を直視することができなかった。
こうして、あおいちゃんは自宅に50日も放置され、亡くなったのだ。
最高裁は上告を退け、懲役三十年の刑が確定した。
感想文
私は虐待サバイバーです。私がどういった家庭環境で育ったかは、別の記事で話しています。
毒親に育てられた上、学校や親戚、母親の彼氏からの暴力も受け、幼少期は福祉と縁が無く、複雑性PTSDになりました。なので社会に適応するのがとても難しく、対人関係を築くのが難しい状況です。
この映画や本に触れるのも辛かったですが、自分の過去に何があったのか理解する為にも、このふたつの作品に挑む必要がありました。
これを読んで、私も我が息子に幼少期の自分を重ねているのかと思いました。確かに私は、「絶対に怒らず育てる。むしろ甘やかすくらいでいい」と何回も言って、子育てをしています。
自分が虐待されてきたから、子供を否定する教育をしたくないんです。拒絶される痛みは、嫌というほど分かります。
芽衣さんにも複雑な事情がある事は察します。ただ、だからといって、我が子を虐待していい理由にはならない。
例えば、過去に私は料理人をしていたので、店に来る家族連れを沢山見てきました。店の中で、我が子を怒鳴りつける親を数えきれないほど見てきました。その度に、私の胸は痛みます。
何故、愛する子を、虐げるのか。
「子育てをするようになれば分かるよ」みたいな発言も何度か耳にしました。しかし、息子が産まれて1年4ヵ月になりますが、私は一度も息子に怒っていません。
ちゃんと子ども目線にたって、優しい育児をする。それが親の勤めだと思います。
どうやったら、虐待を一つでも無くせるのか。可哀そうな子供や、辛い状況にいる親を救う方法は何か。
この事件に触れた人々は、その点を考える機会を与えられます。
虐待を受けて死亡した子どもは年に77人(16年度)。今も5日に1人、未来ある幼い命が失われている。
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