黄色い人

ある地方のまちで、小さなたべもの屋を営む。様々な感情が揺り動かされる日々を、「黄色い人…

黄色い人

ある地方のまちで、小さなたべもの屋を営む。様々な感情が揺り動かされる日々を、「黄色い人」目線で綴る。

最近の記事

新豆のおしるこ

2024年正月。 一年越しの計画で、自家栽培小豆で新豆のおしるこをつくることができた。 丁寧に繊細に炊き上げた小豆は、ふっくら大粒で、完成したおしるこは、私の記憶のなかの祖母の味と母の味を足して2でわったような仕上がりに。 一口含んだ瞬間、「あ、わたしが飲みたかったのは、そしてあなたに飲ませたかったのは、これだったよ」って思った。 開業してからずっと、 ずっと「業務的正解」を追い求めてた。 ずっと「効率的な稼ぎ」を上げるための「合理的な答え」を求めてた。 ずっと「差別化

    • 小豆とともにこの1年

      ことし、生まれて初めて「小豆」をまいた。 小豆が好きすぎて、その愛おしい豆の素性が知りた過ぎて、そしてことしの正月、心に抱いた「来年の正月こそ、自前の小豆でおしるこをつくって、その幸福をわかちあい、一年の幸を祈りたい」と思ったことを実現すべく、周囲からの静かな圧を感じながらも、勇気をだし、管理を任された粗放地の一角にまいたのだった。 5月にまいた小豆は、去年の今頃、近隣の農産物直売所で買った小豆。どんな品種かもわからないけれど、地元の方が出荷するのだから、この地域の気候に

      • 風に揺れるコスモス

        毎年この時期になると、コスモスが恋しくなる。 秋の桜。 北のほうに広がる地域では、農夫が種をまいたのか、鳥がこぼれ種を運んだのかしらないが、ほぼ野生化して、路肩にところどころ咲いている。 それがなんとも、愛おしい。人為と自然のミクスチャーの産物。 風に揺られても、折れないコスモス。 細くて頼りない茎は、しなやかに風と踊り、元に戻る。 コスモスの葉っぱは、まるでオカヒジキ。 わずかな表面積しかなくて、光合成してエネルギーを作り出すのにこれで十分なの?と思わせられるけれど

        • 百姓見習い

          わたし自身は一体何者? いろいろとことあるごとに考えていくうちに「百姓見習い」という肩書がパッと閃いたのが、隣町でのアウェー出店を控えた前日に、翌日の出店で手配りしたい!と一念発起し、ほぼ徹夜で作り上げたお店の紹介パンフ(通称:一夜城パンフ)と格闘した2022年11月25日の夜のこと。 非常にしっくりくるあまり、その後に続いてきたこの半年は、自分史上で最もラクな気持ちでいる。 百姓、それは百の姓を持つ人。 特定の仕事だけをしていない、職業人と言うよりは生業人。農ももちろ

        新豆のおしるこ

          作品であり、看板であり、お店でもある

          わたしたち夫婦は、「固定店舗は(あえて)持たない飲食業のカタチを」と、試行錯誤しながら、とぼとぼ歩んできた。 主人こそ「料理すること」が彼の全てを昇華させた表現手段であるわけだけど、わたし自身は、なにぶん「料理以外」の部分で、わたしの中にある「美意識」を小出しに結晶化させて、要所要所にちりばめて日々事業継続を図っている。 固定店舗を営む、ということは、その道に片足を突っ込んだ人なら誰でもわかることだけれど「資本力」がない限り「事業継続のハードル」が非常に高い。 飲食業は

          作品であり、看板であり、お店でもある

          人を愉しませる、ハッとする色づかい

          2023年のわたしのチャレンジは、ユーモアと色彩。 そう決めた、1月末の今。 これまで苦手としてきた分野だったけれど、「現状の突破口」はここしかないと思えている。 放っておいてもついつい滲み出てしまう「真面目」はそのまま置いておいて、表向きの「見た目」「感触」の部分には「ユーモアと色彩」を。 年始から今までの4週間。 予定して会う人が居る場合、「新調した、よそゆきのコート」を「やりすぎ」のように着ていくことにしている。 わたしの2023年の意気込みを、昨秋購入のコー

          人を愉しませる、ハッとする色づかい

          わたしのお汁粉

          新年の初出店に合わせて作ったお汁粉は、自分史上最高の出来栄えだった。 豆の皮をプチプチ弾かせて、豆の中身をもしゃもしゃ食べながら、あん粒子の溶け出した汁を飲み込む。 暮らしがまだ前時代の香りを残していた頃、ストーブの上でことこと煮た豆がじっくりゆっくり柔らかくなる味。 秋にとれた初物を、トロ火でゆっくり煮たら、豆は口の中でほろっと崩れて、最高だった。 実家にいる時、母は、まめに手料理を作る人だった。 祝事とあれば必ず、赤飯も作ってくれた。 炊きおこわではなくて、四角い

          わたしのお汁粉

          今、生きていることの実感を

          惣菜屋なのに路上ゲリラライブみたいなことをしていた時、まだ見えぬお客様を待ちながら、太陽が沈む瞬間をじっくり見守ることが多かった。 朝が来て、昼があって、夜になる。 寒かったのが、暑くなって、また寒くなる。 植物が日頃から生き様としてやっていることそのままに、人間のわたしもまた、日の光にコントロールされている、と実感していた。 所詮、生物。ただ、偶然今、生かされているだけなんだな、と。 そして、仕事なのか生活なのか、もはや区別がつかない日々の中で、一筋縄ではいかない、

          今、生きていることの実感を

          民藝、その愛。そして庶民の暮らしを取り戻す

          常に、本物に囲まれていたい。 偽物ではなく、本物。 その思いが年々と強くなる。 若い頃から憧れを抱いていた暮らしや日用品は全て、「民藝」と呼ばれるものたちだったのだ、とボヤッとした焦点が定まったのが、最近だった。 新建材に囲まれた生活は、わたしにとっては快適とは程遠く、隙間風に悩まされるくらいがちょうどよかったんだと、人生折り返し地点で常々思う。 高度経済成長以降、庶民には「安価」な「大量生産品」をあてがっておけばいい、という考えがベースの「敏腕」経営者が多数派となっ

          民藝、その愛。そして庶民の暮らしを取り戻す

          美意識

          わたしが「美しい」と思うもの わたしが「素敵だ」と感じるもの わたしのこころが「満たされる」もの そういうものに囲まれて生きていきたいし、そういうものを今後の人生かけてずっと貫いていく、と、これまで40ウン何年の経験の蓄積が、じわじわ、我がこころに訴えかけてくる。 妥協の産物ではなく、「いい」と思うものをただ、「いい」と、「言いはり続ける」こと。 お金と引き換えに、誰かの作った、誰かが関わって発信された「美しいもの」を享受することは今後もずっとあるけれど、一方でわたし(

          途方に暮れながら、歩む

          改めて、自覚・不自覚の刃で大切なひとを傷つけてしまうことに、今更ながら怖気付いている。 直情的な出来事を引き起こしがちなわたしが、とても大切な人を本当に傷つけてしまったということ。困らせてしまったということ。 それを改めて感じて、己の至らなさに、呆れ果てる。 「人の気持ちを思いはかること」 「ゆっくり人を待つこと」 よりも、己の直感の実現を、急ぎすぎるきらいがある。ずっと自分の中で反芻していて、結論が出ていることにたいしては尚更。 そんな課題を感じる今、わたしは「ゆ

          途方に暮れながら、歩む

          散り落ちて なお美しく 在る紅葉

          これは、年々、写真の腕をメキメキ上げている友人撮影の一コマ。 黄色味がかった苔の色と対照的な赤。そして一枚だけの黄色。 細い葉柄が描く微妙な曲線に、見てはいけないものを見てしまったような艶かしさすら覚える。 花鳥風月がもたらす「ハッとする経験」が、わたしたちの奥深いところに刷り込まれ、蓄積されて、溜まりに溜まってくると「表現の衝動」が起きる、と最近、つくづく思う。 誰かの猿真似でもなく、 誰かの指示を仰ぐわけでもなく、 ただ、現時点の己から見える範囲で、真善美を突きつ

          散り落ちて なお美しく 在る紅葉

          ミニ歌舞伎町

          商業看板デザインは、見るものの心理を掴む仕掛けに満ち満ちていて、所狭しと並んでいれば、その情報量と圧に圧倒される。 最近は県内各所でも様々な屋外イベントが開かれるようになり、その度に、人間心理を汲んだ大きなメニュー表示に、見た目にも工夫を凝らしたキッチンカーが所狭しと集結する。 ぱっと見てのわかりやすさ、が求められ、いろんな専門店がしのぎを削る。 統一感というのは、なくて、とにかく単独の主張が、ガンガンと飛び交っている感じ。 ある人はそれを「賑わい」と言ったり、「活気

          ミニ歌舞伎町

          潮目を見る

          最近、かなりの頻度で、ただ単に「ああ、生きてるなぁ」と感じる。息してて、とりあえず病に伏せることなく、やることやって、毎日、生きている。仕事とか、遊びとか、休みとか、これまで歩んできた人生の殆どがそうであったように、時間とか義務とかそんな感じの外的要因に縛られることなく、飛び込んできた外からの要請と内から湧き出る衝動が、適度な緊張関係にあるというか。ああ、なんというか。絶妙な塩梅で均衡がとれてるような。はたまた、絶望的に何もない、ような。 流れってのはいつでも潮目があるよう

          潮目を見る

          表現することの苦悶

          多分、自然や偶然が一番美しい。 今はただ、それを追従してる。 恣意的になればなるほど、醜くなっていく表現に、 ひとの力の微々たるものを知る。 全力で表現に勤しむことは、そのひとを救う。 (しかし一方で、ほかのひとに犠牲を強いることもある) 自然に、素直に、混じりけなしに、を追い求めるほどに、その姿は消えてしまう。掴めそうになった途端に、ドロン。 あの人はどこへいくのか。 わたしはどこへいくのか。 不思議の森へ一歩踏み入れてしまったが最後、迷子のまま、このままずっと星

          表現することの苦悶

          色彩に導かれる

          わたしの中に眠れる力が「ウゴキダス」とき。 そのトリガーは、「色への執着」なように、思う。 理詰めによる言語化ではなく、直観で「よき」「美しき」をもう少し第三者にも(そして己にも)わかりやすくしようとするとき、引き合いに出すのは「色」。 そして色を眺めているだけで、その色を初めて見たときの、瞬間がフラッシュバックする。 春の若芽、萌黄色。 浅蒸し、深蒸しのお茶の色。 緑色を感じる黄、黄色を感じる緑。 「なんか、いいんだよね」を「一瞬よりはいくらか長く続く間」だけ

          色彩に導かれる