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サッカーの忘れられないシーン

今日は私の高校時代のお話をしようと思います。

私は5歳から22歳まで部活動でサッカーをしてきました。

そのサッカー人生の中で1番キツかったのが高校の3年間です。

高校サッカーや高校野球は「THE熱血魂」のようなイメージだと思いますが

その通りで本当に地獄にような毎日でした。

冬にTVで全国高校サッカー選手権がやっていますが、あれは本当に地獄を勝ち抜いた強豪校だけが出場できるいわばボーナスステージです。笑

あの全国大会に出ている高校は本当にどこの高校もすごく強いチームばかりです。

そんな全国大会を目指した高校3年間を振り返りながら自分自身の

サッカーの忘れられないシーンについて書いていきます。

高校サッカー主要大会の説明

京都府の高校サッカーの大会に出場する高校数はおよそ100校。

私は京都府の高校サッカー協会に所属していたので他県のことはわかりませんが、京都府は主に新人戦、インターハイ予選、高校サッカー選手権予選、高円宮杯リーグ戦が1年間のスケジュールとなります。

新人戦は1月、インターハイ予選は5月、高校サッカー選手権予選は11月にありリーグ戦は4月〜10月にかけてあります。

*リーグ戦に関してはカテゴリーによって日程に違いがあります。

泥沼の1年生時代

私は地元では上手い方の選手で中学の仲間から期待されて高校に入学しました。

私が入学した高校は昔の京都商業高校。現京都学園高校です。

「京商」と呼ばれたのは30年ほど前で当時は全国大会常連で京都府の中でも随一の強豪校でした。

それが指導者が変わり校名が変わりどんどん弱くなっていき私が入学した時は中堅校くらいの立ち位置でした。

そんな高校だったので私は1年生から余裕でAチームで試合に出て活躍できるだろうと思っていました。

しかし待っていたのは地獄のような日々。

そもそも部員が130人。

周りの選手や先輩はゴツくて上手くて速い。

自分が勝っている要素を見つけることができませんでした…

中学の時に上手かったとか実績があったからとかは全く関係ありません。

入学初日から「高校サッカー」という壁にぶち当たりました。

初日から1ヶ月篩にかけられるランメニュー。

毎日15キロ以上は走っていました。科学的にこのトレーニングが意味を成すかは関係ありません。ただのメンタルトレーニングです。

これで「こいつらは高校サッカーに耐えられる奴か」を見定められるわけです。

その1ヶ月のランメニューが終わっても毎週火曜日はランの日でした。

毎週12キロ走って筋トレ体感。

試合に負けてもラン。

ひたすら走って走って走りまくる。おそらく1年生の時だけで日本1周できる距離を走ったと思います。

そしてキツいのはサッカーだけじゃないんです。

学校生活もキツかったです。

毎日練習でしんどいしテスト期間でも普通に練習もあります。

でも授業中に寝たら優しい先生以外は顧問に報告されます。

報告されたら罰で走りです。

テストも赤点(30点以下)とったら練習参加できない等学校生活でも非常に苦しいことが多かったのでポジティブに捉えると鍛えられたけど、華の高校生活を送ることはできなかったです。

Aチームに入れるか入れないかの2年生

京都府予選で敗退し3年生が引退し自分たちが2年生になる代がきました。

2年生になるとある程度ランメニューにも慣れ学校生活にも慣れサッカーを楽しめるようにまで成長していました。

2年生の最初はA〜EチームまであるうちのCチームでした。

自分はサイドハーフの選手(日本代表なら久保建英選手のポジション)

だったのでひたすら得点に絡むことを考えプレーし遠征でも結果を残し先輩たちに負けないくらい結果を出し続けました。

夏にはAチームの練習に入るところまでいき、順調にBチームに昇格。

インターハイを終えて次は選手権へ!という時の昇格だったので凄く嬉しかったし頑張ってきてよかったと思いました。

迎えた選手権メンバー発表。

自分の名前は呼ばれませんでした。

このは大会ベスト8までいけたので自分も貢献したかったですが、敗退と同時に

自分の代では絶対いい結果出してやる!

と意気込むことができたので先輩たちには申し訳ないですが、正直次の年が楽しみで仕方なかったです。

最終学年3年生

新チーム発足。

新人戦に向けて走り出しました。

自分はスタメンで出られるか出られないかの瀬戸際にいました。

新人戦ではスタメンで試合には出られず、ベスト32という結果に終わりました。

そして3月の遠征を迎えようとしていた時に左膝内側靭帯損傷という怪我を負ってしまいました。

これからという時の怪我は本当に辛かったし情けない気持ちと後悔の気持ちが一気に溢れ出てきてしばらく普通のメンタルで学校に行くことが難しかったことを覚えています。

怪我の完治までは1ヶ月。

インターハイ予選は5月。

完治して体が万全の状態になるまで1ヶ月。怪我をした瞬間1ヶ月で治してインターハイに間に合うかどうかということだけを考えていました。

そしてスタメンで試合に出るためには監督にアピールもしないといけない立場だったので、ひたすら接骨院に通い電気治療をしてもらいました。

その結果なんとかインターハイに間に合いはしたもののチーム内の競争に敗れスーパーサブ(途中から試合に出る切り札的存在)でインターハイメンバーに選ばれました。

ここで初めて公式戦用のユニフォームが貰えました。

この時の気持ちは一生忘れることのない達成感みたいな感情でした。

2年間頑張ってやっと学校を背負って戦える気持ちは何にも変え難い責任感と自分を奮い立たせる気持ちを持たせてくれました。

肝心な試合の方はまさかのPK戦で敗れ初戦敗退。

相手は格下で勝つことがマストの試合で負けてしまったのです。

自分の代でいい結果を。

と思っていましたがその真逆の恥ずかしい結果を残してしまい、自分も試合にでてPKも蹴ったので不甲斐ないと思いました。

最後の高校サッカー選手権予選

2015/10/4が私たちが負け高校サッカーを引退した日です。

相手は同じくらいのレベルの学校でした。

勝てば現在日本代表で活躍する鎌田大地選手を輩出した東山高校と戦えましたが、

1-2で敗れました。

先制したのに逆転で負けました。

私も後半15分から試合に出て同点の状況からの出場だったので、

点決めてヒーローになってやる!と思い試合に出ました。

相手校には中学時代のクラスメイトやチームメイトもいたので絶対に負けられない戦いでした。

でも負けてしまったのです。

人間絶対に勝ちたい時があります。そんな時に負けてしまうこともあります。

勝てば天国。負ければ地獄です。

でも今考えるとあそこで勝っていたら大学でサッカーを続ける選択を取らなかったかもしれない。

大学で得られたものはすごく大きかった。

そうやってポジティブに捉えるとあそこで負けてよかったなと思っています。

最後に

私のサッカーで忘れられないシーンは公式戦のユニフォームを初めてもらった時、

高校サッカーを引退した日です。

次は大学版を書こうと思っているのでお楽しみに。


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