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【試し読み】未来撃剣浪漫譚 ADAUCHI

こちらは八幡謙介が2013年に発表した小説です。


未来撃剣浪漫譚 ADAUCHI


プロローグ


 繁華街の中央を突っ切る大通りの軒下で、少女は雨宿りをしながら、喧噪を眺めていた。この通りは比較的小ぎれいな店が多い。色とりどりの上品なネオンに雨粒が煌めいて、一種幻想的な夜の風景を画き出している。有名店の前には芸能人のホログラムが投射され、何バージョンかのPRを延々とランダムに繰り返している。
(次、あのぶりっ子バージョン、あ、違った!)
 退屈しのぎにホログラムを眺める少女に、酔っ払いたちは、値踏みでもするかのような不躾な視線を送る。しかし彼らは、少女の隣に立つ男にちらりと目をやると、諦めたような顔ですごすごと去って行く。
 男はがっしりとした体躯に精悍な顔立ち、左手には、袋に包まれた細長い棒状のものを携えている。少女はつと男を見上げて、
「お兄ちゃん、薫、遅いね。」
 と、――
 二人の元へ、小走りで駈け寄ってくる者がいる。ふわりとした髪、華奢な体つき。雨粒はスポットライトのようにきらきらと輝いて、彼の端正なマスクを引き立てる。すれ違う女性たちは、必ず彼を目で追い、黄色い声援をあげる者もいる。美少年は男に近寄ると、
「無二サン、吉田はさっき、裏路地の店に入りました。」
 その言葉を聞いた瞬間、男――芹沢無二の目つきが変わった。
「よし、いこう。茜――」
 と妹を見る。茜は満面の笑みで「うん!」とうなずいた。
 裏路地には、大陸難民の経営する薄汚い店が軒をつらねる。しかし、不思議とこちらの方が日本人の馴染みが多い。薫は二人を目標の店が見える位置まで誘導した。
「まず俺が客のふりをして入ります。無二サンたちは五分したら入ってきてください、それまでに客と店員を外に出しておきます。」
「薫、気をつけてね。」
 茜が心配そうな目つきで言った。薫は、雨に似合わない清涼感溢れる笑顔で、
「バーカ。」
 と茜に言って、颯爽と店に向かった。
「なによ、心配してやってんのに。」と茜は頬をふくらませた。
 雨脚が少し強くなってきた。二人はまた軒下に避難して、きっちり五分待ったが、正面からは誰も出てこない。
「お兄ちゃん、どうしよう……」
 茜はまた不安そうな顔で無二を見上げた。
 すると無二は、無言で細長い袋の紐をほどきはじめた。中から日本刀を取り出し、袋を茜に渡す。
「裏口があるのかもしれない。逃すとやっかいだ、行くぞ。」
 茜は急に瞳をキラキラと輝かせ、兄を見上げると、
「口上、あたしが言っていい?」
 無二は苦笑いしながら了承した。
 茜は店の前まで来ると、満面の笑みを浮かべて、薄汚れたドアを勢いよく開けた。
「吉田五郎さんっ! 芹沢事務所が仇討ち代行に参りましたぁ!」
 よく通る甲高い声が狭い店内に響く。カウンターには料理が手つかずで残っていて、客も店員も見当たらない。
(薫がちゃんと裏口から逃がしてくれたのね――)
 茜は仕事が順調に進んでいることに満足を覚えた。
 と、奥からナイフを手にした男がのっそりと現れた。中背だが、せり出した胸と腕の太さが際立っている。
 茜は下がって、後は無二に任せることにした。ここからは、野次馬整理が忙しい。
 無二は店の入り口から吉田を確認した。
(いかにも軍人って面だな――)
 手にしているのは厚手のコンバット・ナイフ。資料によると元自衛軍所属、半島ではゲリラ戦も経験したらしい。
 吉田は無二を見て渋面を作ると、
「ふん、討ち屋か、いずれ来ると思ってたぜ。」
 と吐き捨てた。酒で顔がほんのりと赤らんでいる。
「上等だぁ、外で相手してやるよ。お前らみたいな道場でのチャンバラごっこじゃねえ、こっちは実戦をくぐり抜けてきたんだ。」
 吉田は自ら、圧倒的不利な条件を選んだ。狭い店の中では、日本刀よりもナイフの方が扱いやすいのは明白だが、酒で気が大きくなっているのか、それとも元軍人の矜恃か。 
 無二は吉田から目を離さずに、後ずさりしながら店を出た。背中に感じる雨がさっきよりもやや強い。グリップの強いスニーカーを履いているので、滑ることはないだろう。
 凛は無二が出てきたのを見ると、すぐに状況を察した。両手を口の脇に当ててメガホンのようにし、既に集まりはじめた野次馬に向かって、「はい! 皆さん、今から仇討ち代行を行いまーす! 危ないですから下がってください。ゴーグルでの録画はできればご遠慮くださーい!」
 言っても無駄なことは分かっている。数時間後には、この仇討ち動画がネットを駆け巡るだろう。
 吉田も店から出てきた。腰を落として左半身に構え、右手にナイフ、左手は指先をピンと伸ばし、顔の少し前に留めている。無二は相手のファイティング・スタイルをざっとイメージした。
(構えが空手に近い、突き蹴りと組み合わせたナイフ・コンバットか……ナイフの形状からも、投げはしないだろう。)
 しかし、無二はまだ抜刀しない。抜き身の刀は意外ともろく、鎬(しのぎ:側面)を叩かれると簡単に折れてしまう。そのことを相手が知っている可能性がある。
 吉田の向こうにいる野次馬の中に、薫の姿が見えた。店員を無事連れ出したようだ。
 と、――
 いきなり吉田が突進してきた! 無二は一瞬虚を突かれ、反応が遅れた。吉田はいつの間にかナイフを左手に持ち替え、無二の右半身を突いてきた。無二は右足を後ろに下げて突きをかわす。
(こいつ……)
 こうすれば抜刀し辛くなることを知っている。
(鞘ごと叩くか。)
 タイミングを見計らえば、左手に持った刀で相手の側頭部にカウンターの打撃を入れることはできる。が吉田はそれも見越しているのか、空いた右掌を右頬にぴたっと付け、肘で脇腹をガードしている。
 吉田は、のっけから防戦一方となった相手を、心中侮蔑した。
(実戦は攻撃あるのみだ! 道場で屁理屈をこね回す辛気臭い剣術屋には、一生分からんだろうな!)
 無二は執拗な突きをかわしながら、冷静に吉田のナイフ捌きのクセを読んでいた。ナイフを戻す際、時折引きすぎることがある。その瞬間に吉田の左半身に隙ができる。
 鋭い突きが来る、無二の脇腹を少しだけかすった。吉田はにやりとし、また突きを繰り出す。その際、脇が少しだけ空いたのを無二は見逃さなかった。
(ここだ!)
 吉田が突き、ナイフを引く瞬間に合わせて、無二は右前蹴りを放つ。ずっしりとした肉の感触を靴底に感じる。
 吉田は膝を折り、うずくまった。無二はすかさず飛び退いて、抜刀し、鞘を捨てた。野次馬からどよめきが起こる。
 吉田は腹を押さえながら、なんとか立ち上がった。瞳は、怒りに狂って焦点が合っていない。ナイフを右手に握りしめると、奇声を発しながら突進してきた。
 無二は素早く下段に構えた。
 吉田は無二の左側頭部目がけてナイフを振り下ろす。が、一瞬早く無二は腰を沈め、刀を頭上に立てた。両掌にずっしりとした衝撃が伝わってき、首筋に生暖かいものがかかった。
 立ち上がり、振り向きながら正眼に構えを直す。吉田は血だまりの中、右腕の上腕部をおさえて苦悶の叫びをあげている。無二はなおも慎重に近づくと、素早く刀を振りかぶって、吉田の首筋に振り下ろした。
 歓声と拍手に混じり、罵声も聞こえる。仇討ち反対派の者だろう。しかし、無二を恐れて誰も近寄ってはこない。
 血溜りを雨が薄める。
 野次馬たちは事の終わりを確認すると、何事もなかったかのように夜の街に散っていった。
「お兄ちゃんオツカレ! けっこう手強かったね、この人。」
 茜が傘を差しだしながら、ゲームの対戦相手でも見るかのように、動かなくなった吉田に目をやった。無二は思い出したように刀を投げ捨て、茜の差しだした傘を手にし、これからの面倒な事後手続きを想像して溜息をついた。
 遠くから、サイレンの音が幽かに聞こえた。


第一章


 二階堂凛(りん)は、ついゴーグルをかけたまま、夕食の仕度をする姉の方へと顔を向けた。キッチンいっぱいにホログラムが投射される。彼女はそれをわずらわしく思い、ゴーグルをめんどくさそうに外してから、
「ねえお姉ちゃん、」
「んー? なあに?」
 蘭はフライパンを見つめたまま、顔をややこちらに傾けて応えた。凛は少し声を上げて、
「またウォールに穴だってぇ。新横らしいよー。」 
「仕方ないんじゃない? あんなに長いんだもの、全部は見張ってられないでしょ? 凛、そろそろテーブル片付けてよー。」
「はぁい。」
 そう返事はしたものの、キッチンの様子からまだ猶予はあるとみて、凛はまたグリーンバックを張った部屋の隅に向きなおり、ゴーグルをかけ直した。投射されたホログラムが乱雑に並んでいる。それらを目で追うと、焦点が合ったアイコンやサムネイルが拡大される。
「んー、ちが、ああもう、検索じゃないってばぁ。」
 意に反して現れた検索ボックス――先ほどの『んー、ちが』云々が入っている――に焦点を合わせ、「それ、消して。」と言うと、また視野を拡げた。
 蘭はやっと振り向くと、ゴーグルの操作に苦戦する妹を見て、微笑を漏らした。


〈ゴーグル〉は文字通り、ゴーグル型のコンピュータ・デヴァイスである。
 オンにすると、ちょうど眉間のあたりにあるプロジェクタから、空気中に文字や画像が立体投射される。投射された画像は本人のゴーグルからしか見られないのだが、共有は可能である。デフォルトで電話機や、カレンダーや、テレビのモニタや、音符などのアイコンがあり、それらを追う目の動きは、ゴーグルのレンズで感知される。焦点が合うと、アイコンが少し拡大される。それらを、「つけて。」とか、「開いて。」とか「消して。」と、声で操作するのである。音声は骨伝道マイクでこめかみから拾われるので、操作にはささやき程度で十分である。あらかじめインストールされている音声認識ソフトが、自動的に本人のイントネイションや言い回しを学習するので、操作精度は使えば使うほど上がるのだが、凛のはまだ少し誤動作が出てしまう。


「それ、保存。保存っ!」
 凛は『第二次関東大震災全記録』というサイトを見つけ、軽く目を通して保存した。レポートの資料集めだった。
 次いで、関連トピックを見ていった。焦点が合うごとにタイトルが拡大される。『新横浜県*町で〈ウォール〉に穴、不法難民の流入に警戒を』はさっき見た今日のニュース、続いて『心の〈ウォール〉~日本人の心に聳える〈ウォール〉とは』『第二次関東大震災と東アジア紛争』『東日本大震災と第二次関東大震災』を矢継ぎ早に保存し、ついでに『Last Paradise決死行』という写真集も、ちょっと違うかなと思ったが念のため保存した。
(こんなに読めるかな? ご飯のときお姉ちゃんにもきいてみよう。)
 キッチンを見て気配を察すると、「終了、閉じて。」とつぶやいた。目の前の画像が消え、部屋は一気に味気なくなった。この瞬間にいつも寂しくなる。それが嫌で、凛はゴーグルがあまり好きになれなかった。
 キッチンに向かい、フライパンの中を覗き込む。
「お、ハンバーグだ!」
 蘭はゴーグルをかけたままの妹を見て、眉をひそめた。
「凛、人と話すときはゴーグルは取りなさい、マナー違反よ。」
 凛は口を尖らせて「もう消してるもん。」と反論しながら素直にゴーグルを外した。
(たまたま外し忘れただけなのに、お姉ちゃんはこういうの絶対に見逃さないんだから……)
「消してるかどうかは本人しか分からないでしょ? 凛、『親しき仲にも礼儀あり』よ。それに……」
 と振り返ると、いつの間にかテーブルがセッティングされており、両親の遺影も、いつものようにちゃんと置かれていた。
(要領のいい子……)
 凛は言ってもすぐにはやらないが、〝今〟というタイミングには、必ず行動していた。それが分かっていてもあえて小言を言い続けるのは、私が親代わりだという蘭の使命感だった。
 二階堂姉妹は、両親を亡くしていた。遺産は既に成人していた蘭が相続し、管理している。保険金も下り、蘭も仕事をしているので、当面二人で食べていくには困らなかった。


 凛はハンバーグを箸で分割し終えると、
「あ、そうだ……ねえお姉ちゃん、」
「ん? ああ、〈ウォール〉の話?」
「あ、んーっと……」
 そっちは後できくつもりだったのだが、蘭に促され、混乱してしまった。どうしようかと迷って、凛はやっぱり思いついたことから口にした。
「私、アシンパ似合うかなぁ?」
 そう言って首をかしげ、ボブの髪を左手で梳いた。
 アシンパ――アシンメトリィ・パーマ――は、40年代のヘアスタイルとしてすっかり定着していたが、似合う似合わないがはっきりしている。親友の友子は『絶対似合うから!』と何度も勧めてきたが、凛はまだ迷っていた。
 蘭は質問には答えず、
「ダメよ、まだ高校生だし、お小遣い足さないからね。」
 と、妹をたしなめた。
「それに、あれは派手な顔じゃないと似合わないでしょ?」
「どうせ私は地味な顔ですよ。」
 凛はふくれて、今度は揃えた前髪をいじりながら、箸を付け合せのニンジンに勢いよく刺した。箸はにんじんを貫通して皿にぶつかり、カツンと鳴った。それがきっかけなのか、凛は当初の質問を思い出した。
「そうそう、宿題でね、第二次関東大震災のレポート書かないといけないんだけど、お姉ちゃんって記憶ある? 家族の証言とかもきいてきなさいって。」
 蘭は大げさに顔をしかめて、
「あるわよぅ! そりゃあもう、すっごい揺れたのよ。震災が確か2027年で……今年が45年でしょ? そっか、凛は生まれたばっかりだったから分かんないよね。あの時はもう怖くて怖くて……。その後で〈セント〉って言葉をあちこちで聞いて、意味が分かるまで時間がかかったわ。しばらくして、神奈川が〈新横浜県〉になりましたって先生が言って、なんだか不思議だったなぁ、横浜は今も横浜なんだけど。」
「あ、〈カナガワ県〉って小学校のときテストに出た! 私ずっと〈カナワガ〉って覚えてて、何回も間違ったから。」
 蘭は、まだ妹が小さかった頃、夕食後に何回もテストしたのを思い出して、口角を上げた。
「そうそう、そこから、日に日にぼろぼろの格好した人たちが横浜にも増えてきて、〈ウォール〉の建設が始まったのが中学生ぐらいだったかしら?」
 と、そこで急に噴き出した。釣られて凛も笑顔になる。
「私さ……、人がいっぱい追い出されて、東京にすっごい大きなお城が建つんだって思ってたの。で、私がそこのお姫様になるんだって毎晩夢見てた。フフッ、子供よね。」
 蘭はそう言って視線を落とし、しばらく自分の皿を眺めていた。まるで、そこに当時の混乱の様子が映し出されているかのように。


 2027年、第二次関東大震災により、首都東京は壊滅した。
 時の首相は米国で行われていた日米首脳会談を中断し、関空へ降りた。同日、偶然にも外遊中であった天皇皇后両陛下を京都御所へお迎えし、そのまま京都から指揮を執った。といっても、国家の中枢が完全に麻痺した状態では成す術もなく、火の海と化した東京を『注意深く見守る』しかなかったが。
 かつての東京は、どこまでも続く瓦礫の海と化した。自衛軍も救出作業のみを行い、復旧作業は行わなかった。かくして日本の首都は京都へと戻った。プライドの高い京都人は、表向きは東京壊滅に同情を寄せたものの、裏では得意の二重三重に入り組んだ皮肉をささやきあいながらほくそ笑んだ。
 旧東京は、『都市を復旧して国を滅ぼすべきではない』と、新政府に体よく見捨てられた。


「でもさあ、人が生活できるようになったってことは、その当時頑張ってたら復旧できてたんじゃないの?」
 凛はそう言ってハンバーグの最後の一切れを口に入れた。
 震災から一年ほど経ち、放置された旧東京に政府や民間の調査団体が踏み込むと、不自然な集落が多数発見された。現在、世界最大規模のスラムとして名高い〈Last Paradise of Tokyo〉、通称〈ラスパラ〉の原型である。
「そうねえ――」
 蘭は先に食事を終えて、お気に入りのベトナム茶〈蓮茶〉を飲んでいる。
「私もわかんない。財政とか、外交とか、色々難かしかったんじゃない? 結局、今となっては不法難民や犯罪者、軍人崩れのマフィアやヤクザがひしめきあってる無法地帯、今さらどうしようもないわよ……。西の人たちは未だに『とんでもない』って言うけど、隣接している新横県民としては〈ウォール〉で区切ってもらわないと危なっかしくて外も出歩けないわ。凛――」
 蘭はお気に入りのベトナム製湯飲みを置いて、妹を真っ直ぐ見据え、
「いつも言ってるけど、たとえ護衛付きのツアーでも、絶っ対に〝向こう〟には行っちゃダメよ!」


 凛は食事を終えると、またゴーグルをかけて続きを始めた。  
 先ほど保存した記事を読んでいると、視界の隅にあるメールボックスの宝箱が光り、その上にサムネイルが出た。
(友子から射メだ!)
 凛は嬉しくなって、読みかけの記事に「消して。」とつぶやいた。次いでサムネイルに焦点を当てて、「それ、開けて。」
 友子の上半身が投射された。髪を雑に留め、地味なタンクトップ一枚と気の抜けた格好、自宅からだろう。
「再生。」
「やっほー、凛!」
 と友子が手を振る。録画されたホログラムを再生しているだけなのに、いつもつい、釣られて手を振り返してしまう。
「明日ぁ、ボックス行かない? オッケーなら予約取っとくから、早めに返事してね。明日もお昼教室行くね。じゃーねー。」
(ボックスかあ……)
 明日は金曜日で、お姉ちゃんはデートだから夕飯は一人になる。どうせなら誰かと一緒の方がいいに決まっている。ボックスなら食事もできるし。そう思って、友子に文字だけのOKメールを送った。自撮り用のプロジェクタは持っていない。
(普通に楽しくおしゃべりできたらいいんだけどな……)
 友子は論客であった。人権活動家の母親の影響である。遊んでいる最中でも、何かのきっかけで熱弁が始まり、女の子にしてはめずらしく、結論が出るまで話を止めない。凛は賛成も反対もせず、いつも聞き流していたが、何かに熱くなれることは単純に羨ましいと思っていた。


 翌朝。
 テーブルには既に、朝食と弁当が用意されていた。蘭(らん)はいつもの仕事着だが、メイクも髪型も、ばっちり気合が入っている。イヤリングも初めて見るやつだ。
「お姉ちゃん、私今日、友子とボックス行ってくるから。」
「そ、友ちゃんともしばらく会わないわね。」
 蘭はそっけなく応えた。
(外出するのに、いつもの小言がない……)
 姉の上の空な態度に、凛はニヤリとした。きっとデートで頭がいっぱいなんだ。蘭はニヤニヤする妹を見て、
「なによ、凛、変な顔して――」
「お姉ちゃん、何かいつもと違う。」
「違いません!」
 蘭は目を合わせずそう言って、パンを一口囓(かじ)った。凛は姉の腕に、普段は絶対にしない高級ブランドのブレスレットが嵌められているのを見てとると、ますます興が乗って「もしかして今日、プロポーズされたりしてー。」とわざといやらしい口調で言った。
 蘭は今度は明らかにうろたえながら、
「ちが……もう、大人のお付き合いに口を挟むんじゃないの!」
 と、さっきより少し強く妹のおふざけを戒めた。
(私だって色々考えてるんだから……)
 蘭は妹の無邪気さが気に食わなかった。子供じゃないんだから、もう少し私の微妙な立場を理解してよ。
 パンを一旦皿に置き、紅茶に砂糖を入れようと思った瞬間、目の前に砂糖壷が現れ、面食らってしまった。 
 固まっている姉を見て凛は、
「あれ、お砂糖じゃないの?」
 と、もうさっきのやり取りは忘れ、面食らう姉を不思議そうに眺めている。
「あ、うん……ありが、と。」
 蘭は、本当にこの子はエスパーじゃないかと思った。時々こういうことをする。それならそれで、もっと私の置かれている状況に気を使って欲しいものだ。
 凛はそそくさと朝食を済ませ、「行ってきまーす、頑張ってね、お姉ちゃん。」と、意味深な笑顔を見せ、学校に向かった。


 蘭は恋人の杉山から、既にプロポーズを受けていた。そのときは、妹が高校を卒業するまで待ってほしいと、一旦退けた。予想外の答えに、杉山は明らかにイラついた様子だった。振られることも覚悟したが、半年ほど、月二回のデートを重ねるうち、なんとか関係は修復できた。そして、今日である。
 わざわざ七夕の日に、私の行きたがっていたベトナム料理店に誘ってきた時点で、再度プロポーズされることはもう分かっている。前よりもさらに高価な指輪を用意していたらどうしよう? もちろん断るつもりだが、また彼のプライドを傷つけるのは明白で、心が痛んだ。
(今度こそ愛想を尽かされるかな……)
 溜息をついて、杉山の頼りない風貌を思い浮かべた。
 撫で肩に、薄い胸板、掴まったら引っこ抜けそうな腕、所在なく動く目と口角、甲高い声……。およそ男性的魅力とは無縁の存在だ。けど、
 ――私の話はちゃんと聞いてくれるし、凛のことも考えてくれている。
 いつかは、とは蘭も思っていた。ただ、今はまだ早い。最低でも凛が卒業して、できればあの子がやりたいことを見つけてから。それまではプロポーズは受け入れられない。
 自分の気持ちを改めて確認すると、ふいにある仮説が湧いた。
 ――私はそもそも、彼とは結婚したくないんじゃないの? その言い訳に妹をダシに使っているだけなのでは?…… 
 初めて浮かんだ考えに一瞬、呆然とした。そこから思考はひとりでに拡がった。
 凛は今まで、ここぞというときはちゃんとやってきた。高校受験だってそう。何度もそれを見てきたじゃない? 私と離れてもきっとちゃんとやれる、どうして信じてあげられないの? いや、信じてる、だから進学だって強要しなかった。じゃあ、いっそ、もう杉山さんと……
 蘭は出口の見えない思考を断ち切るかのように、立ち上がって食器を重ね、シンクに置きに行った。
 鏡を見る。表情が固まって、全然かわいくない。
(ダメよ! 今日はデートなんだから。)
 無理に微笑むと、火の元を確認して仕事に向かった。


「だから、さぁ、白鉢巻は仇討ち、の決意の象徴、なんだよぉ。」
 凛がいつも通り、昼休みに教室で友子を待っていると、斜め前の男子がキワドイ話を始めた。同じクラスの山田である。いつもは教室でお昼を食べないのに……
 ちらりと見ると、太った背中に、汗でシャツがびっちりと張り付いている。生まれつき息継ぎが下手なのか、いつも言葉が変な所で途切れる。
 山田は仇討ちオタクである。全国各地の仇討ち事例を蒐集しており、本人曰く、日本で十指に入る研究家なのだそうだ。
「そもそも、白、はこの、国では神聖な色と、されてるからね。洋服の、〈討ち〉さんでも、せめて白鉢巻はして、ほしいなぁ……。先日、のぉ、北九州のやつでは久々に、和装の、正統派が現れ、て、良かったよぅ、即効アップされてたなぁ、足だけは、スニーカー、だったけど。」
 山田は言い終わると、満足げに深呼吸をした。
 向かいに座っている目つきの悪いチビは、「どうせなら甲冑でも着りゃいいのに。」と茶化しながら、「大和(やまと)会の元老のやつらも、まさか仇討ちまで合法化されるとは思ってなかったろうな。ま、俺らにしちゃハッパが麻薬って言われてた時代の方が信じらんねぇけど。」と、わざとダルそうに言った。
 チビが言うのは、〈温故革新〉を党是とし、2010年代後半から議席を伸ばしはじめ、2019年、ついに与党の座を勝ち取った〝革新的保守〟政党、〈大和会〉のことである。大和会政権下で、旧自衛隊が自衛軍に改編、売春、大麻は合法化され、国営の娼館や大麻を扱う店、通称〈コーヒーショップ〉が出現した。第二次関東大震災が起こる前、まだ東京があった頃である。
 当然のことながらマスコミ主導で世論は猛反発したが、改革の着実な成果――雇用の拡大、税収の増加による社会保障の充実、性犯罪の激減、出生率の上昇、観光業の賑わい――を受け、一部を残しメディアも国民も、次第になんとなく暮らしぶりの良くなったこの新しい世界に慣れていった。
 そこまでの大改革を推し進めた大和会元老たちさえ、〈新仇討ち法〉の施行は想像だにできなかっただろうとチビは言うのである。
 震災以降、関東を中心に治安は再び悪化、検挙率は著しく低下した。犯罪者は皆、旧東京に潜ったからだ。警察は悲鳴を上げた。果てしなく続く無秩序な瓦礫の海を、いったいどう捜査しろと言うのか?
 弱体化しつつもなんとか与党の座を維持していた大和会は、一大公共事業として、旧東京を覆う〈ウォール〉の建設に着手した。その〈ウォール〉の〝向こう〟へは誰でも自由に渡れるが、〝こちら〟へ入る際には身分証明書の提示を必要とする。これにより、犯罪者の自主的国外退去が促進できるとした。
 しかしこれには、『逃げ得』、『遺族の感情を無視している』と批判が上がった。犯罪被害者遺族会は、政府に対し連日糾弾を繰り返し、マスコミがその後を押した。
 政府はついに野蛮ともいえる解決策を打ち出した。それが、〈新仇討ち法〉である。これが意外にもすんなりと成立した。海外メディアは驚きと共にこの時代錯誤の法案の由来について、こぞって特集を組んだ。


(ダメだわ……)
 大和会は、友子の地雷だった。彼女曰く、『諸悪の根源』だそうだ。友子が来たら絶対議論になる……
 どうしようかとまだ開けていない弁当箱を持って立ち上がり、ふと廊下を見るとちょうど教室を覗く友子と目が合った。
「ごめーん、授業押しちゃってさぁ、数学の笠元のやつ――」
 片手で合掌しながら入ってこようとする彼女にあわてて駆け寄って、
「ね、今日雨降ってないからたまには外で食べない? 行こっ!」
 とめずらしく自分から提案し、強引に外へ押し出した。
 屋上に出ると、凛は安心して、友子に場所決めを任せた。屋上で食べる生徒は意外に多く、友子は場所を決めかねている。凛はいかにも梅雨らしい、薄い灰色の空を見上げた。ここ数日は曇りだったが、また明日から雨らしい。
「凛!」
 呼ばれた方を見ると、友子はフェンスにもたれ、あぐらをかいて弁当箱を開けている。凛はその向かいに座った。 
「あー、また野菜ばっか。」
 文句を言う肉食の友子に、
「いいじゃん、ヘルシーで。」
 凛の弁当は、昨日の残りのハンバーグがメインだった。
「一口食べる?」と友子に差し出す。
「ありがと。なんかさぁ、肉食べないと元気でないのよねぇ。」
 友子は大げさに喜んで、箸でハンバーグの隅を切り取り、頬張った。
「おいしー、蘭さんってホントよくできてるよね。キレイだし、料理上手いし、ねえ――」
 と、友子は前のめりになって、
「もうプロポーズとかされたの?」
 と目を輝かせた。
 凛は箸を止めて、今朝の姉の様子を思い出し、「うーん――」と首をかしげると、
「どうだろう、わかんない。なんか色々あるみたい。」
「なぁんだ……」
 友子は期待していた答えと違って、大げさに落胆した。
「そういうこともちゃんと話し合っといた方がいいよ。今日、デートなんでしょ? 蘭さん。七夕デートなんてフラグ立ちまくりじゃん! 帰ったらちゃんときいときなよ。」
 いつもの友子のおせっかいに、凛はまたさっきと同じように首をかしげて、「そだね。」とぎこちなく微笑んだ。友子は続けて、
「凛はさあ、どうなの? 蘭さんが結婚して、旦那さんと暮らすとしたら、寂しい? やっぱり結婚してほしくない?」
 凛に両親がおらず、姉の蘭が母親代わりだということは、もちろん知っている。
「いつかはそうなるって分かってるし、お姉ちゃんには幸せになってほしいけど、そうなったら私、いきなり一人になるからなぁ、それでお姉ちゃんも心配してるんだと思う。私、やりたいこともまだ見つかってないし……、でも、普通にバイトするだけじゃダメなのかなぁ……」
「凛にもそろそろ彼氏ができたらいいのにねぇ。凛は絶対引っ張ってもらう方がいいよ!」
「私は……別に、いいよぉ。」と、この話題を嫌ってすぐに、「今日何時に取れた?」と早口に続けた。
 友子はボックスの予約時間をまだ凛に告げていなかった。
「七時半。七時にK駅でいい?」
「うん、いいよ。じゃあ一旦帰ってからだね。」
「うん。何着て行こっかなー……あ、そういえば最近ヨシトがさあ、しょっちゅう射メ送ってくんだ、それが毎回髪型とかキメまくってて――」
 友子の話を凛は、どこか遠い世界のニュースのように聞いていた。


 放課後、凛は職員室に向かった。進路のことで担任の倉持に呼ばれている。
 センサーに反応して自動ドアが開くと、一礼して倉持のデスクを見たが、本人はいなかった。少し迷って、結局デスクの前で待つことにした。
 倉持心愛(ここあ)――
 そういった名前を付けるのが流行った時代だったらしい。
(可愛いけど、五十を過ぎて『ココアちゃん』はちょっとね……)
 奥のソファでは誰かが男性教師に説教を受けているようだ。
「だからお前、場所を考えろ、場所を。ここは学校で、学ぶところ。ハッパキメてたら授業受けられんだろうが? TPOだ、T・P・O!」
 声の主は、『T・P・O!』に合わせて机を三度叩いた。
 大麻は、例の改革により、十八歳以上であれば喫煙可能だったが、校内での所持、喫煙はもちろん禁止されている。生徒はそれを破ったらしい。男性教師のお説教を聞くともなしに聞いていると、倉持が戻ってきた。
「二階堂さん、ごめんなさい、お待たせして。」
 そう言いながらデスクまで来て、ゆったりとした動作でオフィスチェアに座ると、「椅子、お借りして。」と隣の席を優雅な手つきで示した。
 上から見ると白髪が目立ったが、染めるつもりはないらしい。
 座って向き合うと、倉持は早速切り出した。
「あなた、進路はどうするんですか? 卒業はたぶん大丈夫だと思うけど、就職する気はやっぱりないんですか? どこか探してるの?」
「えとぉ、とりあえずバイトします。」
 凛のふわふわとした返答に、倉持は一旦鼻から息を吐いて、ぎこちなく口角を上げた。
「まあ、ここまで来ればそれぐらいしかないんですけどね……何かやってみたいこととかないんですか? お姉さんは経済的には余裕はあるって、面談の時おっしゃってましたけど。」
 それについては凛も、姉から何度も聞かされていた。
『お金のことは心配しなくていいの、遺産は十分あるんだから、大学だって、専門学校だって余裕を持って行けるわよ――』
 とはいえ、ただ、なんとなしに決めた進路に両親の遺産を使うのは申し訳なかった。凛の返答を待たず、倉持は続けた。
「そういう生徒も、いることはいます。まあ、やけになって〈Last Paradise〉で一旗揚げるなんていうのよりかは遥かにましですけどね。」
 そう言いながら、諦めまじりにデスクを片付け始めた倉持を見ると、凛は急に反論したくなったが、議論を想像するとすぐにめんどくさくなって、口をつぐんだ。
「ん? どうかしましたか?」 
 倉持は凛の様子に気づくと手を止めて、もう一度彼女に向き合ったが、凛は、「いえ、……考えておきます。」と会話の終了をうながした。
 倉持は口角を上品に上げ、
「はい。じゃあまた来週ね、よい週末を。最近はまた関東でも辻斬りが増えてますから、遅くまで出歩かないこと、いいですね。」


 帰路。雲は薄い灰色から、ほとんど黒に近いほど濃く、分厚くなっている。凛はうなじの汗を軽く手で拭った。今年の梅雨は例年よりかなり長く、その分夏が短くなるらしい。夏の予定は特になかったが、少し損をした気分だ。
 凛は一人になると、改めて進路について考えを巡らせた。そもそも、はっきりとした進路を決めかねていることについて、先生や友達が心配する理由が未だによく分からなかった。バイトして、最低限の生活費を稼ぐ。それじゃあダメなのだろうか? 何がダメなの? 金額? コヨウケイタイ? 保険とかのこと? 世間体?
『目的を持って』と言う。『最低限の生活費を稼ぐ』ということが立派な目的だと思っていたのだが、どうやらそれではダメらしい。バイトして最低限の生活費を稼ぐ。お父さんやお母さんがいれば、反対されるのだろうか? お姉ちゃんは、やりたいことを自分で見つけろ、それがなんであれ応援する、としか言わない。進路のことで両親ともめているクラスメイトの話を聞くと、うちは楽でよかったと、いつもほっとする。けど、どこか寂しい気もした。
『自分がない。』
 大人たちは口を揃えたようにそう言けど、凛にはその意味がよく分からなかった。自分はここにいて、息をして、生活している。その自分が、自分でお金を稼ぎ、最低限の生活を営む。それでもやはり『自分がない』のだろうか? では、目的もないままなんとなく就職や進学をすることが『自分がある』ということなの? 倉持にそう反論するつもりだったが、結局いつものようにうやむやにした。
 思索が途切れると、急に蒸し暑さが増した気がした。


第二章


 鮫島保は、雑居ビルの中に入ると、サマーコートから日本刀を出して左手に持ち、薄暗い階段を上りはじめた。二階から三階へと向かう途中で、上から足音が聞こえてきたので、一旦踊り場まで下がって気を張った。すると、上階の踊り場に、ぬっと大男が現れた。
 ぴったりとしたTシャツに乳首が浮き、股間がもりもりと隆起している。首にスポーツ用の、バンドのついたゴーグルをかけている。
(レイパーか。)
 保は露骨にイヤな顔をした。ゴーグルでレイプを生中継する類だ。
 大男は保の刀をちらりと見て、
「よぅ、同業。」と、気軽に歩を進めた。
(同業やと!)
 保は怒気を発した。
 それを見て、「一緒にするなって面してるなぁ。」と男はニタリ。
「あんた、辻斬りだろう? 竜神に雇われた。だったら同業じゃねぇかよぅ。」
 大男はニヤニヤしながら、欧米人のように両手を開いて、また数歩近づいた。
 保は腰を落として気を出し、「お前の商売道具落としたろか?」と柄に手をかけた。間合いには入っている。
 大男は慌てて数歩後ずさると、ニヤニヤを媚びるような笑みに変え、
「こ、これから、仕事でよぅ。」
(何が〝仕事〟や。)
 保は『フン』と鼻を鳴らし、柄から手を離して、アゴで階下をしゃくった。
 大男は歯噛みしながらそろりと保の前を通ると、足早に階段を降りて行った。すれ違い様目をやると、股間は萎えていた。


 鮫島保は、辻斬り屋である。人を斬るところをゴーグルで生中継するのである。世界中に好事家がいて、この洗練された人殺しのショウを観るため、湯水のように金を出した。斬り方や対象など、細かく注文がつくことも多い。
 依頼は、保の所属しているインターナショナル・マフィアの竜神会から受ける。
 竜神会――
 非日本人で構成される、アウトサイダーの一大ネットワーク。トップダウンの縦割り組織ではなく、各支部が独立しており、それぞれの支部同士が任意で協力し合うのだ。日本人でなければ、誰でも入会可能である。
 入会者は、左手の甲に竜の焼印を押す。これさえ見せれば、全国各地の事務所でかくまわれ、闇の仕事にありつくことができた。日常は薬局で売っているフェイク・スキンを貼っていれば、まずバレることはない。


 2019年、時の内閣は、旧中華人民共和国の動乱を機に、悲願である自衛軍設立に向けて、一気に動き出した。諸外国から〈NINJA〉と呼ばれ恐れられた当時の外務省は、中国(現北京政府)の最大のネックは、朝鮮半島を巡る伝統的な小競り合いの真っ最中であるロシアでも、台湾、上海、香港の独立と同盟を謳った〈上海宣言〉でもなく、内陸部各地の騒乱であることをはっきりと見抜いていた。
 日本政府は、内陸部からの積極的な難民の受け入れと、設立後の自衛軍による独立三国への牽(けん)制(せい)を条件に、ついに北京政府から、『緊迫するアジア情勢の和平に向けて、日本の実行力が必要不可欠である』と、事実上軍の設立を容認する談話を引き出した。世界は、あっと驚いた。
 鮫島の母――日本名明子(あきこ)は、その第一次難民である。
 明子はNPOの支援を受け、大阪都のせまい中華街で、なんとか真っ当な職にありついていた。ほどなく、日本人である父と出会い、結婚し、保が生まれた。父はすぐに蒸発したらしい。明子は再婚はせず、女手ひとつで保を育てた。
 明子(あきこ)は厭世的な美人であった。日本の女にはない、独特の霞のような色気が自然と男を誘った。言い寄る者は後を絶たず、それが同性の嫉妬を買い、彼女を余計に生きにくくしていた。
 保はそんな母の血を引いた。切れ長の目は、いつもどこか悲しげで、それが女の空想をかき立てた。保は完璧な日本語を操ったから、日本人として疑われなかったが、母が大陸難民であることを告げると、十中九人は去っていった。まあ、そういうもんだと思った。
 十六のとき、母もいなくなった。ある日保が帰宅すると、薄汚れたちゃぶ台の上に彼名義の預金通帳と、『強く生きなさい』という置き書きだけがあった。
 保はそこから、ストリートキッズの道を順当に歩んだ。ほどなく、竜神会の焼印を押した。ハーフの保は、きっちり半分さげすまれたが、それもいつしか消えていった。彼は強かったのだ。
 ――強ければ。
 なんとかなるものらしい。
 保は生まれて初めて人生観というものを持った。それこそが母の残した言葉の意味だと理解した。


 事務所のドアを開けると、たむろしていた数人が、一斉にこちらを睨んだが、保の容姿と、左手に携えた刀を認めると、また一斉に目を反らした。竜神会で、鮫島保に喧嘩を売る者はいない。しかし、その中に一人だけ、保を凝視し続ける小柄な男がいる。
「鮫ちゃん!」
 男は懐かしいあだ名で保を呼んだ。
「おー、パクかぁ! 久しぶりやな。」
 半島出身のパクは保の大阪時代の悪友で、共に竜神会に所属していた。パクは小心者で、荒事には向かなかったが、天性の運転技術を買われ、ドライバーとしてあちこちを転々としている。連絡を取り合う習慣はなく、長らく顔を合わせていなかった。
「お前が都まで送ってくれるんけ?」
 保の言葉にパクは笑って、
「せやねん、鮫ちゃん新横におるって聞いてたから、もしかして思たらやっぱそうや!」
 保は親指で後ろをさして、さっきすれ違ったレイパーのことを訊ねた。
 パクは複雑な笑みを浮かべ、「鮫ちゃん嫌いやろ、あんなん。」と眉をひそめて何度かうなずいた。
「最近はけっこう多いねんて、あっちも。それもだんだん依頼内容がエグなってる。こっちは現場見いひんけど、終わったら車で別の支部連れてくやろ? 着くまで延々話聞かされんやで? たまらんわ。血まみれのチンポ嬉しそうに見せて来よるやつもおるし……」
 在日歴の長いパクは、流暢な日本語でまくし立てたが、ふと気がついて話を中断し、「待ってはんで。」と別室に目配せをした。事務所のボスのことであろう。
「ああ、ほな。」
 と、保は刀を旧友に預けた。武器を持っての面会は礼に反する。
 別室のドアをノックすると、「Come in」と英語で応えがきた。
 新横竜神会を仕切っているのは、アメリカ人らしかった。どの支部も、ボスはたいてい西洋人である。スーツを着た大陸系の通訳が、保に依頼内容を告げた。
「日本人で、黒髪の、美しい女を斬ってほしい、と依頼が来ています。とどめは刺してください。殺し方は自由、ただし日本刀で。よろしいですね?」
 保は黙ってうなずいた。報酬や支払い方法は既に聞いている。
「では、これを。」
 通訳が保に、仕事用のゴーグルと、エフェクト・マスクを渡した。
「ゴーグルは手動でオンにすれば即生中継が始まるようにセッティングされています。仕事が終われば不要になりますが、現場には捨てないでください。」
 保は内心『分かっとるわ』と悪態をついた。
 ボスがニヤニヤしながら、通訳に何か言った。
「あなたはラッキーだとボスが言っています。今日は日本は、Princessに出会える日なんでしょう?」
 保は一瞬意味が分からず、「プリンセス?……」と顔をしかめ、「ああ、七夕かいな。」と、面倒くさそうに苦笑いした。アメリカン・ジョークというのはどうも性に合わない。
「アホくさ、行くわ。」
 そう言って部屋を出ると、パクを目で促(うなが)した。


 車はブルーのミニバンである。明るい色のファミリイ・カーにすれば、無駄に職務質問を受けずに済むというのは、この稼業の常識だ。保は後部座席に座り、刀を足下に置いた。
 エンジンをかけると、パクはやや身を乗り出して、フロントガラス越しに真っ黒な雲に被われた空を仰いだ。
「降るかなぁ。……今日は? どんな依頼?」
「日本人。黒髪の、キレイな女やて。わざわざ黒髪言うぐらいやから、欧州か、アメリカかな? キレイて、どっからやねん?」
「まあ、適当に流すから、ええのん見つけたら言うてや。」
 パクはそう言うと、滑るように車を発進させた。薄汚い路地から大通りに出て、信号で一旦止まる。
「鮫ちゃん、都のドン・ジョ~ルノから直々のお呼びやて?」
 パクは〝ジョルノ〟をオペラ歌手のように巻き舌で発音した。
「ああ、せやねん。都は好かんけど、断る理由もないしな。」
 用心棒か、また辻斬りか、あそこなら叡山絡みの依頼だろうか? いずれにせよ、腕を買われてのことであろう。それは保を満足させた。


 凛(りん)は小走りにK駅改札を抜けると、観光PRのホログラムを見ている友子を見つけ、「ごめーん!」と駆け寄った。待ち合わせより少し遅れている。
 友子は「おそいよー。」と手をつなぎ、「いこっ!」と凛を先導した。片側三車線の長い横断歩道をぎりぎりで渡りそこねて、中央の高架下で次の青信号を待っていると、目の前に来たブルーのミニバンが急に減速した。友子は誰かここで降りるのかと思い、慌てて少し後ろに下がり、凛もそれに合わせた。しかし車はまたスピードを上げ、右折して去っていった。二人は拍子抜けして、しばらくその車を目で追った後、顔を見合わせて笑った。
 横断歩道を渡りきり、ひとつ右の筋のモールに入ると、とたんに大麻のきつい香りがあちこちから漂ってくる。Kモールは、コーヒーショップの激戦区でもある。ひと頃は、もの珍しさに観光客が大挙して押し寄せたが、今は随分と落ち着いている。
 全国チェーンの〈First Smoking〉、老舗の〈ジャマイカ屋〉、アイドルの卵がジョイントを手巻きしてくれる通称〈萌え草店〉、政府認定大麻草鑑定士や、熟練の巻き師を抱える高級店〈天狗堂〉――。
 二人はほとんどの同年代と同じく、大麻には興味がなかった。服に臭いがつくのを避けるため、モールの真ん中を歩き、ボックスへと向かった。


 ボックスは、時間制でレンタルできる投射用の個室である。各部屋は全面にグリーンバックが貼られていて、プロジェクタが設備されている。客はネット経由で自分のゴーグルとそれぞれのプロジェクタをコネクトし、自前のソフトで勝手に遊ぶのである。初期費用を抑えて出店できることから、いっとき爆発的に店舗が増えた。やがて固定客獲得のためのサービス合戦が始まり、ダイニング系、音系、ムービー系、エロ系など、棲み分けが自然となされた。二人が向かったのは、良心的な価格と総合的なサービスで学生に人気の〈dream BOX〉チェーンである。
 順番が来ると友子は、やたらと露出度の高い服を着たホログラムの受付嬢に名前を告げた。受付嬢は、ほっぺに人差し指を当て、内股でわざとらしく考えるしぐさをしながら、「んんーっと、んんーっと。」と甲高い声でうなった。コンピュータが予約時の声紋と照合しているのである。すぐに彼女の表情がパっと明るくなった。両手を広げて、「認証完了、D4番のボックスになりまーす。ごゆっくりお楽しみくださぁーい!」と言うと、今度は手を前にし、胸を寄せてお辞儀をした。友子はバカみたいだと思ったが、口には出さなかった。
 部屋はカップル用で、端にソファ・セットがある。友子はバッグをソファの上に置き、テーブルのタブレットを触りながら「適当に注文するね。」と言って、返事も待たずに品物を選び始めた。
 凛は注文を友子に任せると、膝の上に乗せたバッグからゴーグルを取り出した。
「ね、友子、海でいい?」
「いいよ、そっちは凛に任せる。」
 凛はゴーグルをかけ、〈dream BOX〉のサイトに行き、デフォルトのサイト・コンシェルジュであるさっきの受付嬢に、ボックスD4のシステムと、クラウドをコネクトしてもらった。眼前に投射された女の子は、大げさに汗をかきながら、両手に抱えた巨大なコンセントを雲に差し込む動作をした後、またさっきのように両手を広げて「できたー!」と言った。凛は〈風景〉のフォルダに焦点を当てて「開けて。」とつぶやいた。海のサムネイルを探し、いくつかあるうちの一つを適当に開いた。
「おおー!」
 味気ない緑一色の部屋が、夏の海に変わった。波の音やカモメの鳴き声がリアルだ。人がいないから、プライベート・ビーチという設定なのだろう。部屋のシステムとコネクトしてあるので、もうゴーグルを使わなくても見られた。
 友子は慣れた手つきでタブレットを操作しながら、ちらっと目を上げて風景を確認した。
「いいねー、どここれ?」
「知らない。」
「もぅ、落としたときにちゃんとメモしとかないからだよ。」
「後でいいやって思って、結局どこだか忘れちゃうんだよねー。」
 凛は友人の忠告にのんきな返事をして、涼しそうに投射された景色を見やった。
 友子は注文を終えると、タブレットを置き、凛とくっついて座ると改めて景色を見廻した。ノイズが少なくて、いい風景だ。
 壁の液晶パネルには、各品目の到着予想時間がカウントダウンされている。カルピスコーラとライチジュースの横に出ていた〈ご注文変更可能〉の文字が〈不可〉に変わった。料理はまだ変更可能だったが、そのつもりはない。
 眩しそうにする友子を見て、凛はまたゴーグルをかけると、少しトーンを調節した。
「ご注文の品が到着しまーす。容器が熱くなっている場合がございますのでぇ、お気をつけ下さいねっ!」
 また受付嬢と同じ声がして、壁に付いている小さな扉が点滅した。友子がそれを開け、ドリンクを二つ取り出すと、トレイが流れていった。液晶パネルでは、パスタが〈ご注文変更不可〉となっていた。


「もうちょう遅ならんと無理やでぇ。金曜やろ今日?」
 パクが後部座席の保に言った。いくつかある繁華街周辺を廻ったのだが、どこも人通りが多すぎる。時計を見ると、まだ八時四十分だ。とはいえ、遅すぎるとそれはそれで人の数が減り、指定通りの獲物が見つからなくなる可能性があるので、悠長にはしていられない。
「いっぺんどっか停めよか、疲れたやろ?」
 保はパクを労い、そう提案した。職質を受けないために、交通規則を完璧に遵守しての運転は、想像以上に神経をすり減らせるはずだ。しかも、保の仕事が済み次第、都へ飛ばなくてはならない。
「せやな、ちょっと休憩しよか。」
 パクはネオン街の人通りの少ない路地を見つけると、丁寧に左折した。標識を確認し、車を左に寄せてライトを消した。


 高級店のステータスとも言うべき生身のウェイターが、うやうやしく空いた皿を手にして去ると、杉山は改めて先ほどからの話を続けた。
「だから……僕には今がベストなタイミングだと思うんだ。凛ちゃんのことが心配なら、僕が近くにマンションを借りてもいい。就職も、僕の顔でなんとかなると思う――」
 流行の高級ベトナム料理店で、予想通り杉山は、二度目のプロポーズをしてきた。指輪や、それに代るプレゼントがなかったのがせめてもの救いだった。
 ――それにしても、全然分かってない。
 普通なら食事は何気なく済ませて、二軒目、お洒落なバーでムードを盛り上げてから勝負するべきではないか。あるいは、杉山もそうするつもりだったのかもしれないが、オーダー後の何でもない沈黙に耐え切れず、前菜が来る前に、もう本題を切り出してしまった。自然と空気は重くなり、せっかく楽しみにしていた料理を素直に味わえなくなってしまった。
 しかし――、
 その、いかにも慣れていない感じが杉山の誠実さを保証したので、蘭の笑顔は知らずと輝いた。
「ありがとうございます。」
 蘭はあらたまってお辞儀をすると、
「本当に、タイミングだけなの。私は、どうしても凛が卒業するまで、それまではまだ次のステップには行けないの。でも――」と両手を小さく振って、
「遠まわしに断っているとかそういうんじゃないから、それだけは誤解しないでね。」
 と大げさに微笑んだ。
 杉山は今回もまた延期されたが、なぜだかわからない蘭の沁み入るような笑顔にかえって安堵した。
「分かったよ。僕も男だ。どーんと構えて待ってる。」
 そう言って何度かうなずくと、めずらしく大きな声でウェイターを呼び、度数の強い地酒を注文した。蘭も同じものを頼んだ。
 会話はそこから、ようやく弾みだした。


 支払いを済ませ出てきた杉山に、蘭は小走りで駈け寄り、勢いよく腕を絡ませた。その腕の細さも、なぜか今日は気にならなかった。杉山は一瞬よろけ、照れ隠しなのか、腕時計で時間を確認した。九時を過ぎたばかりだから、さすがに帰宅にはまだ早い。それに、明日は土曜日である。
 蘭は杉山の横顔を、ちらりと盗み見た。
(ここからどうするんだろう? もう一件、どこかに寄って、それとも今すぐ……)
 今日のこの気分なら、今すぐホテルに連れて行かれてもよかった。この気持ちを魔法のように察し、男らしく実行してくれたらどんなに素敵だろう!
 腕時計を見ながら一人でぶつぶつと呟いている杉山の肩に頭をもたせ掛け、絡めたままの手で、蘭は彼の腕をそっとさすった。
(気づいてくれない、かな?)
 杉山は右腕を下ろし、蘭からは目をそらせたまま、心なしか震える声で、「酔っちゃったね。雨も降ってないし、ちょっと……歩こうか。」と、少し寂れたネオン街に向かって歩きはじめた。蘭も足並みを揃える。週末だが、天気が不安定なせいか、人通りはまばらである。左に入ればラブホテルが立ち並ぶ通りだが、そこを過ぎ、次の通りに来ると、杉山は唐突に左へ曲がった。蘭は進行方向を察知できず、パンプスを踏み外して少しよろけた。鼓動が速まった。
 こちらは裏通りらしく、急に人気が消えた。向こうからの一方通行だが、あまり需要がないらしい。
 さっきのホテル通りと今の通りを結ぶ細い路地が左手にいくつかある。二人とも傘を持ってきていない。雨よ降れ! 今すぐ降れ! と蘭は念じた。そうしたら、きっと……
 少し先に、ブルーのミニバンが一台停まっていた。


 凛と友子はあらかた食事を済ませると、お互いの見つけた動画やサイトを見せ合った。友子は、アーティストがあらかじめプログラムした通りに歌い、MCをする〈Sing 4 U〉にハマっていた。目の前で、人気越流アイドルが友子のお気に入りらしい曲をベトナム語ヴァージョンで歌っていたが、凛にはいまいち良さが分からなかった。
「ねえ――」
 凛が不意に口を開いた。
「私、何したらいいんだろ?」
 友子は投射をポーズして、「あ、ゴメン、つまんなかった?」と苦笑いした。
 越流アイドルはダンスの途中で止まっている。
「あ、違うの、そうじゃなくって……」
 と凛はあわてて、
「先のこと。今日、ココアちゃんに呼ばれて、とりあえず卒業したらバイトするっていって、それでもいいって言われたんだけど、私……どうしたらいい?」
 友子は、自分の進路を他人に丸投げにする凛を、いつもながらに愛おしく感じた。そんな彼女を、優しく、時には厳しく励まして、引っ張ってあげるのが自分の使命だと信じていた。友子は軽く息を吐いてから微笑み、
「そんなのあたしが決めることじゃないじゃん。それは凛が自分自身で決めることだよ。自分が『これ!』って思うことを世間が何と言おうとやり通す。あたしはそうじゃないとつまんないと思うよ、だって自分の人生じゃん!」と一息に言った。
「うん、そう……だよねぇ。でもその、『これ』ってのがまだなくて……。みんな受験とか就活に動いてて、なんか私だけ取り残されている感じで――」
 うつむいて話す凛の言葉は、やはりどこか間延びして、他人事のようにも聞こえる。
 友子は凛の言葉をさえぎって、
「だからさ、凛は自由な分色んなとこ行ったり、色んな人と出会ったり、付き合ったり、色んなバイトしてみたりしたらいいんじゃない? チャンスなんだよ、きっと。あたしなんて大学入ったら勉強ずくめだよー。」
 そう言って、ソファに勢いよくもたれた。
 友子は法学部を受験するのである。それでもこうしてたまには遊んでいられることが、彼女の堅実さを物語っていた。
「友子はさあ、裁判官になりたいって、ずっとずーっと思ってたの? そのためにずっと勉強してきた? きいたことなかったけど。」
「ずっとじゃないけどぉ、うちのママがあれじゃん? で、法律の矛盾とか不条理みたいなのを子供の頃から聞かされてて、なんかそっちに行くのが普通って感じになってた。強制されたことはないんだけどね。でも、色々勉強してくとやっぱ変なとこだらけだよ! 仇討ちなんてその象徴! 中東でさえほとんどイスラム法から脱却してるのに、なんで日本は江戸時代の法律復活させてるわけ? だいたい……」
 友子はダンスの途中で止まったままの大好きなアイドルを無視して、話に本腰を入れた。凛はいつになく真剣に、親友の法律談義に耳を傾けた。


 運転席のパクは、「九時過ぎまでここで待ってよか。良さそうなん来たら言うわ。鮫ちゃんゆっくりしとって。」と保を気使った。
 保は外から見えないように刀を抱いて、ふと、初めてそれを手にした頃を思い出した。
 十八の時、流れ者が、保のいる事務所に身を置くことになった。男は叡山ゲリラ僧〈抜刀隊〉に属し、幾度もの実戦を経て、還俗したらしい。叡山が自治区宣言をする前である。
「そっからは、辻斬りやて。」と、仲間が教えてくれた。「なんちゅう坊主や。」と。 
 男は『一宿一飯の義理』と坊主のくせになにやら任侠臭いことを言って、事務所の若いのを集めて叡山仕込みの武術を教えた。
 恐ろしく強かった。
 男は保に目をかけた。腰がいいという。
「お前は腰が据わって、肩が柔かく、腕がよく伸びる。度胸もある。剣に向いている。剣をやったらどうだ? 今はこれで食えるぞ。俺が教えてやろう。」
 男には、指導者としての才があった。保の理解を的確に把握し、必要なことだけに的を絞ってアドヴァイスした。基礎や定石も、保には合わないと判断すると捨てた。枠に囚われていないのは、元僧侶だからか、それとも僧侶を辞めたからなのか。
 夜は酒を飲みながら、取り囲む若い衆に武勇伝を語った。都の要人ナニガシを暗殺したのは、抜刀隊有志で結成された〈叡山天誅組〉の誰それで、修行時代からの知己であるとか、同じゲリラ僧にいたナニガシ流の免許と立ち合って斬り伏せただとか――
 保は幼い少年のように、夢中で男の話に聞き入った。
 男は当初の予定を大幅に延期し、半年逗留した後、保の成長を確認すると東へと発った。
 ほどなくして、保に人斬りの依頼が入った。どうやら男の紹介らしい。
「はじめてのおつかいやで、鮫ぇ。」
 禿げ頭のやたらと日本語がうまいボスが、にやつきながらそんな冗談を言ったのを、いまだに覚えている。
 保の『はじめてのおつかい』は、無届けの仇討ち、単なる復讐だった。相手も闇の人間だそうだ。ストリーミングはせず、きっちりとどめを刺すところまでを録り、データを送って欲しいとのことだった。
 保は、なんなくおつかいを済ませた。また箔が上がった。
 ――俺は強く生きている、あの人のように。
「鮫ちゃん! あれどや? 男連れやけど。」
 パクがやや早口でそう告げた。保は反射的に刀を掴んで、身を乗り出さず、目だけで前方を確認した。
 カップルか――
 女は――
 黒髪、若い。
 日本人だ。
 男は、どうする、殺るか……
 殺してもいいが、『依頼と違う』と支払いをしぶられても困る。かといって、逃がすと足がつく恐れがある。二人が迫ってくる。ぐずぐずしていられない。
 保は『出たとこ勝負』と肚を決めた。外から見えないように刀を抜き、
「行くわ。」
 そう言った声が、不自然に歪んでいた。もうエフェクト・マスクを付けている。
 左手のフェイク・スキンを剥がしてから外に出て、ゴーグルをかけ、腕時計を見るふりをして竜の焼印を映した。

(試し読み終了)

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