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私がスポーツビジネスの世界に飛び込んだ本当の理由 ~中編~

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~話題の多かったアジアカップ~

私が入院していた2004年は、サッカーのアジアカップとオリンピックが同時期に行われた最後の年で、夏休みの期間は毎週のようにサッカー日本代表の試合が行われていました。(アジアカップは、2007年大会からサッカーワールドカップの翌年、オリンピックの前年に開催されるようになる)

下手の横好きとはいえ、幼稚園から大学までサッカーを続けていた私にとって、アジアカップとオリンピックは、本来であれば寝る間も惜しんでテレビにかじりつくイベントです。しかも、アテネオリンピックのサッカー日本代表には、私と同学年で、私が中学生の頃から憧れ目標にしていた阿部勇樹選手や松井大輔選手、駒野友一選手などが選ばれおり、普段であれば”絶対に見逃せない試合”になるはずでした。

ところが、6月から始めた抗がん剤治療の経過が芳しくなく、また、前述したように、7月には父親から「このままだと余命半年」と言われたことを伝え聞いていた私は、この2つのビッグイベントを観戦する気にはなれませんでした。余命半年と聞いてしまったことにより、寝るのが怖くなるほど追い詰められてしまっていて、テレビを見るほどの気持ちの余裕がなかったからです。生きていれば必ず訪れる”朝”が来るたび、「180日」という数字のカウントダウンが一つずつ減っていく感覚に苛まれた私は、眠れない日々を送っていました。だから私は、アジアカップは一切観れなかったのです。

しかし、2004年のアジアカップと言えば、2002年の日韓ワールドカップの後に行われた最初のビッグイベントだったというだけでなく、開催地であった中国が、小泉総理の靖国神社参拝批判などからくる反日感情を露にしていたことで、サッカー界だけでなく、政治的にも国際的にも注目度の高い大会となっていました。このときの中国サポーターは毎試合のように日本の対戦国を応援するだけでなく、国歌斉唱時にはブーイングを浴びせ、日本サポーターに向かってゴミを投げつけるなどの反日行為を繰り返していたことで、スポーツニュースだけでなく報道番組でも連日連夜大会の様子が中継される等、世間の注目も集まっていたのです。

そんな中、日本代表は、ヨルダンとのPK戦遠藤保仁の不可解な退場を乗り越えたバーレーンとの延長戦にまでもつれた死闘などを乗り越えて見事決勝に進出すると、決勝でも開催国中国を破り、大会史上初めて連覇を達成。こうして、2004年のアジアカップは、色々な意味で話題には事欠かない、”記憶に残る大会”となっていきました。

その為、大会が始まると私の周りは連日連夜、アジアカップの話題で持ち切りになりました。見舞いに来てくれた友人は、ほぼ全員が口を揃えて「アジアカップ見た!?」と尋ねてきましたし、当時β版をリリースしたばかりだったmixiやGREEにおいても、常に誰かがサッカーに関する日記をアップしているような状況でした。さすがにこれだけ情報が溢れると、一切テレビを見ていない私でも、日本代表の活躍や試合結果の詳細は、十分に把握できてしまいます。そして、大会が進むに連れて高まっていったみんなのサッカーに対する熱量は、次第に私の心にも変化を与えるようになりました。”見たくない”とは思わなかったものの、”見る気が起きなくなる”ところまで打ちのめされていた私の心は、アジアカップの激闘を経て、オリンピック開幕直前には、「どんな状況にあろうとも、同い年の彼らの闘いは絶対に見逃すわけにはいかない」と思うようになっていったのです。

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~私の人生を変えた試合~

アテネオリンピックのサッカー競技は、16か国が4か国に分かれて総当たりの予選リーグを行い、上位2チームが決勝トーナメントに進出して優勝を争うフォーマットでした。当時、国際大会への出場をことごとく逃していたアテネオリンピック世代は、小野伸二選手や高原直泰選手、稲本潤一選手、遠藤保仁選手等を擁した2歳年上の「黄金世代(ゴールデンエイジ)」と比較して「谷間の世代」と呼ばれるなど、世間的には本大会での活躍はあまり期待されてはいませんでした。しかしながら、自分が届かなかった舞台に立ち、日の丸を背負って闘う同い年の選手たちが、世界を舞台に一体どれどけ通用するのかという興味は、私にとってはワールドカップやアジアカップの試合結果よりも遥かに興味深いものであり、彼らが活躍することで、世間の「谷間の世代」に対する批判は打ち消され、更には私の自尊心までも高めてくれるのではないかと期待せずにはいられませんでした。

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南米の強豪パラグアイとの対戦となった初戦は、3-4での惜敗でした。当時、バイエルン・ミュンヘンでレギュラークラスとして活躍していたロケ・サンタクルスは怪我でメンバー外になっていたものの、後にA代表でも活躍するカルドソなどを擁したパラグアイは、持ち前の堅守速攻で日本を大いに苦しめたのです。ただ、日本チームも、立ち上がりのイージーミスで失点しリズムを失っただけで、最終的には銀メダルを獲得することになる強豪国を相手に対等に渡り合っていましたし、3日後のイタリア戦に向けて、私の目には、十分期待が持てる試合内容だったように見えました。

そして何より、同い年の彼らの鬼気迫るプレーぶりは、私の魂を大きく揺さぶりました。失点して悔しがる姿。点を取って喜ぶ笑顔。一挙手一投足に全精力を掛けて闘う姿勢。ピッチ上に全てを注ぎ込む選手たちの圧倒的なエネルギーは、遥か遠いアテネの地からがんセンターの無菌病棟のベッドの上にいる私の心の像にまで確かに届き、そして、掴んで離しませんでした。

この日を境に、私の生活にも大きな変化が起こりました。あれだけ寝るのが怖く、夜になると目が冴えてしまった毎日が途端に終わりを告げ、何事もなかったようにぐっすり寝れるようになったのです。3日後の試合と彼らへの期待感が、私のあらゆる不安や恐怖を消し去り、明るい未来だけを照らしてくれるようになった気がしました。サッカーが、私に生きる活力を与えてくれているんだということを認識した瞬間でした。

結局、日本代表はイタリアにも2-3で負け、予選リーグ敗退となってしまうのですが、私はこの2試合を通じて、「自分にとって、サッカーとは、こんなにもエネルギーを与えてくれるものなのか。死を超越するほど、素晴らしいものだったのか」ということに気づかされました。それと同時に、「自分はたまたまサッカーだったけれど、他の人にとってはそれがバスケかもしれないし、野球かもしれない。ということは、スポーツは誰かしらに必ず勇気を与えることができる素晴らしいコンテンツであり、スポーツがもっと身近にある世界が実現できれば、世の中はもっと楽しくなるに違いない。」と考えるようになったのです。

私はこの体験を機に、スポーツの世界を志すようになりました。無知だった為、どうしたらスポーツビジネスに関われるかはわかっていませんでしたし、スポーツの価値を伝える手段も考えられてはいませんでしたが、とにかくスポーツを身近に感じれる場所に居続け、いつか来るその時の為に準備を怠ることなく備えることが重要だと考え、就職活動をすることにしました。自分には実力も才能もなく、今から表舞台に立つことは難しいことも理解していましたが、一方で、裏方でならスポーツに携わることができるはずだし、自分のような人材を必要としてくれる会社は必ずあるはずだと考えたのです。

そしてこのとき、余命宣告を受け、闘病真っただ中だった私に、スポーツの価値を伝え、一人でも多くの人を感動の渦に巻き込む為にも、「絶対に生きて社会復帰する」という新たな目標ができたのです。


~後編に続く~


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