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あぐり日記①「俺ら北海道さ行ぐだ」


すっかり酪農の仕事が板についてしまったが
つい4年前まで僕は広告営業マンだったのだ。
スーツを着て、ネクタイを締めて、
営業カバンを持ち、
岡山の街を朝から晩まで駆け回っていた。
…自転車で。

これでも一応、
「営業主任」という肩書きがあった。
しかし手当が付くわけでもなければ、
扱いが良くなるわけでもない。
ただ会議に呼ばれる頻度が増えて
責任を押し付けられるようになっただけである。
よく営業先では
「営業主任さんなのに
自転車で来られるんですね!」
と驚かれていたが、
会社の経費節約で車が足りなかったのだ。
(僕の運転が危なっかしかったのもある)

ちなみに部下は担当エリアの関係で
車に乗って営業活動をしていた。
真夏にエアコンをガンガン効かせて
颯爽と外回りへ出かける部下と、
息を切らして汗だくで自転車を漕ぐ自分。
一体どっちが部下で、
どっちが上司なのか分からない。


さて、そんな名ばかり営業主任の生活にも
転機が訪れる。

入社7年目の秋から冬にかけて
原因不明の高熱が2週間続き、
大学の親友と初恋の人が結婚して絶望し、
アラサー独身の同志だと信じていた友人も結婚、
街コンで知り合った女性にフラれ、
さらに営業成績は不況の煽りで右肩下がり
そこへコロナ禍が直撃し収入ダダ下がり。

こんなことが立て続けに起きたものだから
気が滅入ってしまい、酒に溺れるようになった。
休みの日は一日中、呑んで寝てを繰り返し、
仕事の日も毎日二日酔いになるほど飲み明かした。

このまま破滅すると思った。
それでもいいとさえ思った。


そんなアル中まっしぐらのある日、
隣の営業所の上司から唆される。

「君も辞めたいんだよね?俺も辞めたい。
どうせなら同じタイミングで辞表を出して
偉い奴らをギャフンと言わせてやろうぜ」

今の状況を変えるにはこれに乗るしかない…
そう思い、退職を決意し辞表を出した。
ところが上司は辞表を出しておらず
「本当に辞表出したのか!?」と驚かれた。
具体的に日程まで決めたあの勢いは
一体なんだったのか。

すると辞表を出した翌週、
会社の偉い人から衝撃的な通知が来た。

「経営状況が厳しく
当面の間、皆さんの給料が払えません」

僕は自転車営業、
会社は自転車操業だったようである。


退職を決めたものの、
給料さえ出せない会社に退職金なんかなく
旅行ばかりしていたので貯金もほぼない。
生活費もいつまで持つのか不安で仕方ない。

お金はなくても、
時間と積読本だけはたくさんあった。
いつか読もうと思いつつ、放置していた本である。
そのなかに一冊の本を見つけて、
なんとなく手に取った。
宮下奈都さんのトムラウシ移住エッセイ
「神さまたちの遊ぶ庭」。

この本を手に電車に乗って、
毎月通っている広島での滝行へと向かった。


「人生一度きりだし、もうすぐ三十路だし
せっかく転職するなら
どっか遠くに行きたいんですよねー」

滝へと向かう道中、
広島大学の教授に転職の相談をする。

「遠くかーいいね!
遠くといえば僕も今の職場で働く前は
北海道にいたことがあってね。
夏はメロン農家さんの手伝いしてたよ」

北海道…農家の手伝い…トムラウシ…

「それだ!」

北海道に行ってみたい!
農業やってみたい!
行ってみるなら、
やってみるなら今しかない!

こうして僕は
北海道に行くことを決めたのである。

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