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「介護時間」の光景(157)「ビニール袋」「車内」。5.15.

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年5月15日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年5月15日」のことです。終盤に、今日「2023年5月15日」のことを書いています。

(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。

 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。2000年の夏に心臓の発作を起こし、そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日のことを、かなりマメにメモをしていました。

2001年5月15日

『午後4時30分頃、病院に着く。
 母は、布団に入って、横になっている。
 ぼんやりとしている。

「いつも明るいから夜も」などと、今日も言っている。

 弟が一昨日、病院に来たのは覚えている。カーネションが2本ある。

 さらに、昼ごはんのことも覚えていたし、検査をしたことも、忘れてなかった。

「明日は雨が降るのかな」と言い、皇族の妊娠に関するニュースにも興味があるようだ。

 永遠に続そうな、変化の少ない時間が流れている。

 今日も体操もやって、茶摘みの歌もうたったことも、全部覚えていた。

 それでも、トイレは、1日に一回くらいしか行ってない、と主張する。一時間に何度も行っているのに。

 午後7時頃、病院を出る』。

ビニール袋

 駅のホームで電車を待っていた。
 少し遠いところに見えるビルのあいだにビニール袋が飛んでいる。レジ袋、という感じ。

 その後ろには、青い空がとても澄んでいて、だから、その袋が灰色か茶色かで薄く汚れているのがよけいに目立つ。誰かに引っ張られるように飛び、そのあと急に失速して落ちそうに急角度で下がっていき、ある地点でまたふわふわと30秒くらい高さをあまり変えずにさまようように動いて、また上へ飛んだ。ビルの最上階のベランダみたいになっている場所へまっすぐに向かう。

 その急な動き出しの瞬間に、その屋上から2羽のハトが飛び出す。ビルに映った影は活発に動いているのに、その時、ハトも袋も止まって見えた。


車内

 午後3時少し前。人がそれほどいないせいか、いつもよりも広く見える電車内。

 自分がいる車両では誰の話し声も聞こえない。携帯で話す人も独り言を言う人もいない。冷房の音と、電車の走る音だけが聞こえる。座っている人がみんな寝ているわけでもない。さあ、寝るぞー、という勢いがある新幹線などの積極的な静かさを思い出してみても、それとはまったく違った。どちらかといえば、はれものをさわるようなびくびくしたバランスみたいなものがあったように感じた。

 約7分間、誰もしゃべらないまま、次の駅へ着いた。

                        (2001年5月15日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2023年5月15日

 朝起きたら、曇りだった。

 今日は、ずっと雨のはずだったから、勝手なものだけど、妙な拍子抜けをした。

 それでも、雨が降ったり、止んだりが続くから、洗濯はできなさそうで、仕方がないけれど、ちょっとがっかりはする。

 静かな月曜日だと思う。

ドラマ

 録画していたテレビドラマを見る。

 一緒に見ていた妻は、私よりもはるかに集中していて、その上で涙を流していた。制作者にとっては、理想の視聴者ではないか、と思う時がある。

 もう一本、録画したドラマを見て、妻は熱心に見て、涙を流していた。

 私よりも、ドラマを心から楽しめているのだと思う。

 空もそれほど暗くなく、雨がやんだと思って、庭に出たら、また雨が降ってきた。
 いろいろな小さな花が咲いている。

 ドクダミの花は、覚えた。

 昨日も干していた洗濯物はまだ乾いていないけれど、また部屋へ戻す。

 妻は、その天候の合間をぬって、庭の花をつんできて、それをスケッチしている。私も見ているはずなのに、その植物の記憶がなかったが、その姿形は、独特なのはわかった。

5類移行

 5月8日に、まだ新型コロナウイルスが終息していないのに、「5類移行」となった。感染状況も毎日は発表されなくなり、その頻度は週に一度となり、次は、5月19日になるらしい。

 表面的には、コロナは遠くなり、社会活動が活発になるのは歓迎すべきことだと思うのだけど、自分の体も強くなく、気管支炎を持つ家族がいるので、感染に気をつける日々は続そうだ。

 これまでは、発熱など感染疑いがあったら、発熱外来などコロナ患者を受け入れていた医療機関に予約し、かかっていた。5類移行に伴い、幅広い医療機関で受診・入院できるようになったが、地域の医療体制の違いから、どこでも受診できるわけではない。

ではどうしたらいいのか。発熱などの症状が出たら、国承認のキットで自己検査をし、陽性でも症状が軽ければ自宅療養をすすめられる。幅広い世代でワクチン接種が進み、重症化しにくい傾向にあるものの、症状が重い人、高齢者、基礎疾患がある人、妊婦は医療機関などに相談してほしい。

 感染対策が緩和され、発表の頻度も少なくなり、それでも、医療体制が整備されるかどうかには不安が残るので、持病を持つ人にとっては、もしかしたら、これまで以上に感染に気をつけなくてはいけないのかもしれない。

 そして、そうした意識で生活している人間は、少数派になる可能性もあるから、その行動を理解されなくなっていく可能性もある。そうなれば、感染に気をつけて、これまでのように外出をなるべく減らしながらでも、何とか生活できるためには、リモートでの仕事もできるように、本気で考えていかないといけない。

 そんなことを考えると、自分が得意なことではないので、気が重い。




(他にも、介護のことを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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