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『「介護時間」の光景』(211)「心臓」。6.19。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年6月19日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。


 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 
 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年6月19日」のことです。終盤に、今日「2024年6月19日」のことを書いています。

(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、仕事をやめ、介護に専念する生活になりました。2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 母の病院に毎日のように通い、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。


2001年6月19日

『今日は、病院の誕生会の日だった。

 母が、6月生まれなので、それに参加しようと思って、午前8時頃に家を出る。

 夜中まで、義母の介護があるので、ほとんど寝れなかった。

 午前10時前には、病院に着いた。

「早いわね-----」と母に言われる。
「誕生会だから」と答える。

 10時になって、いつもレクリエーションを行うデイルームに向かった。

 今日は6月の誕生会だから、今月の主役は6人いて、そのうちの4人が前に行く。

 母は、どこへ座ったかいいのかをやたらと気にしているが、そのうちに、誕生会が始まった。

 歌を歌ったり、誕生日カードをプレゼントしたりしている。

 あのカードは、私も参加している誕生日カード作りのボランティアで制作したものだった。

 6月生まれの患者さんが、一人一人あいさつをしている。

 知っている人が、立派な言葉を話している。

「我々、6月生まれのために-----」

 拍手が起こる。

 母もみんなの前であいさつをする。

 緊張した顔をしているが、きちんと話し始めた。

「これからも、ここにいると思いますので、よろしくお願いします」。

 状況は把握しているようだけど、その言葉を聞いて、なんとも言えない気持ちになる。

 他の人も、それぞれその人なりのあいさつをして、なごやかな空気のまま、時間が過ぎていく。

 長く感じたけれど、20分くらいで誕生会は終わって、それから体操をして、解散になった。

 ただ楽しいわけでもないのだけど、でも、来てよかった。

 そして思った以上に母がここになじんでいてすごいと思うのと同時に、なんだか少し怖くなった。

 それでも来てよかった。

 昼食は、誕生会の日だから、重箱に入った赤飯があって、小さいケーキもついていた。

 それは見ていてうれしかったし、母も喜んでいた。

 それから、しばらく経ってから、病院を出て、自分の心臓の病気を定期的にみてもらうために、ここからバスに乗って向かう。

 母は、何度も、「この歳まで元気で来れて、よかった」と言っていた。

 元気か------と思ってしまった』。

心臓

 いつもとは違うルートの送迎バスに乗る。

 母の入院している病院から、近いといっても、クルマで何分かかかるから、歩くには遠すぎる病院へ向かう。

 自分の心臓の病気を診てもらうためだった。
 定期的に診察してもらうから、母の病院の系列で、割と近くに循環器の専門医がいるので、そこに通うようになった。

 もう何度か来ているけれど、バスを降りると、空が広い。
 そばには、工事中の高速道路のような立体がある。
 大きくて不思議な塊に見える。

 新しめなのできれいな病院に入る。
 時々、レントゲンを撮ってもらって、医者に言われる。

 左の心房が大きい。

 それは、ずっと変わらない。

 心房細動の大きい発作を起こして、「今度、無理すると死にますよ」と言われてから、まだ1年経っていない。今も薬は飲み続けているし、ストレスなどがかかると心房細動の発作を起こしやすいことは変わらない。

 もちろん、もっと重大な病気を抱えている人から比べたら、とても気楽な状態なのはわかってはいるのだけど、でも、みそっかすな気持ちだった。

 これからもずっとみそっかすな心臓を抱えて生きていくしかない。

 がんばれ、と言われても、がんばることができない人間になってしまった。

                     (2001年6月19日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、ずっと在宅介護をしていた義母が、急に意識を失い、数日後に103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。

2024年6月19日

 昨日は雨が降っていた。

   すごく激しい雨が降ると予報が出ていて、だけど、幸いなことに自分が住んでいる地域は、それほどの雨も降らず、無事で過ごせた。

 今日は天気がいい。

 日差しも強く、気温も上がっている。

 空は、夏空の色になっているように見える。

 柿の葉は、また茂っているようで、その木の中がさらにうっそうとなっているように見える。

 洗濯は2回できた。

ドラマ

 外出しないで家で作業をするときは、おやつの時間などには妻と二人で録画されているドラマなどを見ている。

 最近は、最終回と思ったら、話は終わらず、その後は、衛星放送に続いたり、さらには映画になったりするけれど、それは微妙にだまされたような気持ちになり、さらに、見続けようという気持ちにはなりにくい。

 ただ、そういうことが増えてくると、特に地上波のテレビはこれから本当に厳しくなっていって、さらに視聴者は減っていくのかも、などと自分も視聴者の一人なのに、そんなことを思う。

 この病院を舞台にしているドラマは、医師たちが比較的静かに話すことが多く、特に主役の医師の話し方のトーンは、一般的化しすぎるのは乱暴だけど、臨床心理士に近いのではないか、と思いながら見ている。

 さらには、優秀な男性の脳外科医の振る舞いや気配を見ていると、これまでもやたらと無口で謎めいて孤独な感じの「天才外科医」の像よりも、もう少しリアルな感じがして、このドラマの医師像が、これからのスタンダードになっていくかも、などと思っている。

 こんなふうにドラマをみて、お菓子を食べて、そんな同じような日常を送れるのは、考えたら、恵まれたことなのかもしれない、と思った。

マイホーム山谷

 東京の山谷で、「ホスピス」を成功させた山本雅基の、半生を描いたノンフィクションを読んだ。

 その山本氏の人生の「物語」も予想以上の展開をするので、興味がある方は読んで欲しいのだけど、それに加えて「山谷」独自の、本当の意味での「地域包括」とも言えるケアシステムが、再現性はほぼ不可能かもと思いながらも、とても気になった。

 この「山谷」のシステムは、そこにいる人たちの能力や人間性や覚悟や才能などに、依存しているともいえるので、すごいことで感動的であるとも思いながらも、他ではできにくいのだと思う。

 それでも、このシステムについて学んで、真似をするのは無理かもしれないけれど、少しでも近づけるようなことをしないと、これから先の高齢者介護の世界も、ただ過酷になる一方だとは思う。

 できたら長生きしてよかったと思えるような世の中になった方がいいし、もし、介護が必要になったとしても、介護を受ける側も、介護を提供する側も、可能な限り負担を減らし、生きていてよかったと思えるような状況にしたいと、とても微力な自覚はあるけれど、そのために仕事をしていきたいと考えている。

 自分にとっては、分不相応な気持ちもあるけれど、特に家族介護者の心理的な支援に関しては、10年その必要性を訴えてきたけれど、時々、他にそのことに力を入れている心理職の少なさに、軽く絶望しそうになりながらも、それでも続けないと、と思い直す。

 ちょっと辛い。



(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





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