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【短編小説】白いシーツと、この世界の半分

 夜の帳が下りる。美しい表現だと思った。帳とは部屋にぶら下げて、隔てを作る布のことを言うらしい。その隔てを昼と夜の境目にたとえて、まるで人の昼の活動が終わり、静かに夜の部へと移り変わっていくことを、空の上から降りてくる夜が示しているかのように思えた。
 僕は辞書を閉じる。顔を上げると、妹はすっかり眠りについていた。真っ白で大きなベッドにちょこんと妹の小さな顔がある。その鼻から透明な管が伸びていて銀の棒の先に取り付けられた袋につながっている。ポタポタと液体が、妹の体に入っていく度に、真っ白で大きな体がわずかに上下に、ゆっくりと動くのだった。

 病名を、僕は聞かされていない。両親も、お医者さんも、看護師さんも、誰も生まれてからずっとこの真っ白に囚われている妹の理由を教えてくれなかった。お見舞いに来る度に、妹はニコニコと僕の学校での話を聞いてくれる。でもすぐに、窓の外の空は紅を増してきて、夜の帳が下りる頃、妹のまぶたは閉じてしまう。まるで昼にしか生きられないかのように。
 僕はしばらく、眠っている妹を眺めてから、開いたままだった辞書に、また目を落とした。
 誕生日に何が良いかと聞かれて答えたのだ。両親は妹のことをいつも優先していたけれど、その日だけは僕を気にかけてくれた。10回目の誕生日。僕は妹の理由を知りたくて、分厚い辞書をプレゼントにお願いした。きっとこの中になら、人を昼の世界に閉じ込めて、真っ白なままにしてしまう病気のことが書いてあるに違いないから。

 でも、僕が真っ先に見つけたのは夜のことについてだった。夜。どうしてかはわからない。分厚い辞書の、何ページもある中の後ろの方。索引を眺めていた時に見つけた夜。そして、僕が今まで見てきた窓の外には、そんなに美しい帳が降りていたのだということを知った。
 声をかけられて振り返る。病室の入口にはおじいちゃんとおばあちゃんがいて、迎えに来たと言った。両親は今日も後からお見舞いに来るらしい。仕事の都合。そしてその都合を合わせるのは、妹のためだけだ。

 僕は辞書を閉じて立ち上がった。妹の静かな寝息を、夜が見守っている。カーテンを閉めると、思ったよりも大きな音がしておじいちゃんが驚きに体をビクリとさせた。気づいていないふりをして、2人のもとへ駆け寄って、妹に声をかけた。
「また来るね、お母さんとお父さんによろしく」
 寝息を立てるだけの静かな妹から、返事はもちろんない。もう夜の帳は降りている。真っ白な世界に妹を閉じ込める。だからまだ、僕と違って妹はこの世界の半分も知ることができないのだ。
 でも僕は夜の帳が降りることを知っている。両親が気にかけてやまない妹と違って。知っている。僕はそのきれいな言葉と一緒に。

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