暴力を悪と考えない、という理想論

 暴力はダメだと教えられる。良くないことだと。無条件に、悪いことだと。それは、暴力が人を傷つけるから、その延長に殺人があるから、そして暴力というものにかかわる人々(加害者も被害者も傍観者も救護者も)にとって、結果として後味の悪いものになるからだ。
 つまり、メリットが無いのだと説かれる。暴力とは無駄なことなのだと。する意味がない。必要がない。この世から無くなればどれだけいいだろう……。

 それは、私達に「非暴力」を信奉させた。これは1つの教育方針である。徹底的に、暴力というものを思考から排除させるため、そもそもその選択は愚かなことだと考えさせた。その一方で私達は、娯楽としての暴力的な行為に魅入られている。ノンフィクションの世界では、それは正義だ。そうしなければならないもの、当たり前の世界、どうしようもない理由に迫られている境遇。
 暴力は、悪だろうか? いや、そうではないはずだ。少なくとも、そう思えるはずだ。こんなにも、良くないことだと言われているのに、そして実際、暴力はそう教えられた通りのものだと目の当たりにしているはずなのに。
 なぜか。暴力はどうして、ダメなのに、「本当に?」と思ってしまうのか(もしくは、そう思う人がいるだろうと、思えてしまうのか)。

 残念なことに、それは「正義」だからである。創作物の中で当たり前のように展開される暴力が示すように、それは時と場合と状況によっては、なくてはならないものなのだ。
 人間の歴史は暴力の歴史だ。そして人間は暴力性のかたまりである。そして何より、私達が持つ、最もベーシックでシンプルな情動と、そして問題解決の手段は「暴力」に他ならない

 重要なのは、そんな「暴力的」私達自身を直視しないまま、「非暴力」という教育方針を信奉してしまっていることだ。実際のところそれは、自身が暴力を受けないようにするための手段でしかない。誰も、本当に暴力が「絶対悪」なのだと信じていない(信じているつもりでも、それを貫き通せるはずがない)。
 暴力とは、誰にでも備わっている1つの道具である。ただそれは、時と場合と状況によっては、用いることができないことがある。そして気軽にルールを飛び越えられる者のみが、そんな理屈を暴力で壊してしまう。それが非常に理不尽で、腹が立つから、私たちはそれに罰則と、悪感情を与えた。悪い暴力の正体とはそれである。
 だからその罪は、暴力にではなく、常識や理屈や仕組みや社会を暴力で貫き通そうとする個人にある(また、暴力とは単に、直接的に身体を振るうことに限らない。精神的な攻撃、社会的な圧力、不正、改ざん、ひいきなど、倫理性の欠如は、よく暴力行為へと繋がる)。

 暴力による悪と、暴力そのものの悪を混同してはいけない。そして無条件に、人間の(特に自らの)暴力性を否定したり抑え込んだりすることは、単なる人間そのものの否定である。
 むしろ私達は、暴力性を認めるべきだ。それがあるものなのだと。実現することがあるものなのだと。常に、この身の内に存在し、道具として用いることができるものなのだと。

 そうしなければ、暴力は、ただ決まりを壊すことのできる者の特権になる。誰も暴力を振るわない中での唯一の手段になってしまう。必要なのはふかくふかくこの暴力というものを見つめ、理解することだ。否定や抑圧ではない。
 そうして私達が全て、肯定の内に暴力との付き合い方を見つけた時、初めてそこに1つの平和が実現する。そういう、理想論である。

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