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虚像に映される「悪いこと」に、どうして恐れおののいてしまうのか

 良いことよりも悪いことの方が目につく。
 そして良いことよりも悪いことの方が印象に残る。
 最後に、良いことよりも悪いことの方が反省しやすい。
 だから私達は、良いことよりも悪いことを忘れることができなくて、そしていつもそれが大事であるかのように思ってしまうのだ。
 もし、気にしてしまうことによって私達に心労がたまるのなら、もちろん気にしない方がいい。けれど残念なことに、悪いことを気にしないというのはとてもとても難しい。
 なぜなら、悪いことを気にするのは自分だけではないからだ。悪いことは誰もが目にしてしまうし、印象に残っているし、反省してしまうし(それが他人のことでも!)、そして忘れることができない。
 だから仮に、あなた自身が悪いことから目を背けようとしても、それを報告されてしまう。あなたの周囲にいる人々が、親切な隣人が、それを気にしている。ならば、あなたもそれについて考えないわけにはいかなくなるだろう。そして結局、みんなで反省するはめになるのだ。たとえそれが誰にとっても関係なくても。重要でなくても。

 未来に来るかもしれない危機を予防するという意味で、「悪いこと」に敏感になるのは動物的に仕方ないのかもしれない。でもまずいことに、本当はそれをしなくてもいい場合が多くて、けれどその取捨選択を、私たちは中々できないということなのである。
 つまり私達のアンテナは、常に良いか悪いかを判断していて休まることがない。その中で悪いことをこそ積極的に拾いに行って、忘れないでストックして、勝手に反省して、いつか活かそうとして脳に刻んでいる。
 それが故に、悪いことはおおごとになる。実態に比べて。真実とは違って。つまり虚像である。もちろん、それくらいでちょうどいいから、本能でそうなるように仕向けられているのかもしれない。

 でも、同じくらい「良いこと」があるのなら、それも取り沙汰されるべきなのだ。私達にとっての罪とは、そうして善を強調しないことにある。悪をこそ目の前に押し出して、それへの対処ばかり迫り、勝手に反省すらして、忘れないぞと意気込んで、なのに善についてそれをすることに、気合が入らない。
 良いこと・成功から学ぶこともあれば、憶えておいて後世に伝えたほうがいいことや、再びそれをするためのノウハウだってあるのに。私達はそうやってポジティブに学ぶことに消極的で、反省は失敗からするものだと知らぬ間に思っている。それが、私達をどんどんネガティブな方向に進化させているとも知らずに。

 だから私達は、私達自身の良い面に、もっと目を向けていいのである。むしろ悪いことよりも。失敗よりも。無理矢理にでも。
 それくらいの方が、後ろ向きになりやすい私達にとって絶対にちょうどいいから。

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