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悪は独り、正義は仲間と

 悪と正義というのは言葉上の意味だけで、物語においては、それは単に正義と正義のぶつかり合いである。この ”正義” とは、つまりは ”信念” のことであり、悪とされているものにはそれなりの、そうでない者たちにもそれなりの信念はある。
 では、数多の物語の中で、この2つが全く別のものだと思えるような仕組みは何か? すなわち、私たちはどうして「悪」を悪と、「正義」を正義と認識するのだろうか。
 そこにあるのは、例えば悪役のデザインによるものだとか、迷惑行為を行うだとか、はたまたその登場人物の持っている思想によるのだとか、そういったことが頭に浮かぶ。しかし、そうではない。
 「悪」は孤独なのだ。そして反対に、「正義」には仲間がいる。

 物語の中で、悪役が孤独でなかったことはない。なぜなら、それはどちらから見ても正しい定義となっているからだ。つまり、悪は孤独であり、孤独であるならば悪なのである。
 このことは、私たちが人間が、誰かと協力することを随分信奉してきたことに起因する。私たちは独力で何かをなすのに限界があるのだと信じているし、大抵の場合、そうであることを自覚できるような人生を歩んできた。
 要は共感性があるのである。
 物語というものにおいて、読み手を共感させることはとても大切だから、ストーリー上、独力でなんでもできてしまうことを「正しいこと」として描ききることは、かなり、面白みに欠けさせてしまうことになる。

 そこで、ひとまず物語の上で、「孤独」は、そのままでいいものとしては扱われない。主人公にはたくさんの仲間ができるし、その誰かを失うことはとても辛いこととして描かれる。対して、孤独を是とする登場人物には、早々に超えることのできない障壁が現れ、結局、いやいやながらも仲間と手を取り合うことを学んでいく。

 端的に、物語とは「協力の歴史書」である。だから、その常識の中で孤独は忌避される。
 だからこそ、悪は孤独なのだ。それは必ず、自分以外のものを排斥する思想を抱え、行動に移し、一時的に何かと協力していたとしても、最後には必ず独りよがりの言動で離反する。登場人物の設定がどうのという問題ではなく、悪に設定された登場人物は、そうでなければならない。そうでなければ物語が機能しないのだ。なぜなら、物語は、「誰かと共に在る」ことを是とする思想を、物語の隅々まで広げていく話だからだ。

 それに仇なすのは孤独を信奉する悪であり、悪としての孤独である。

 そういったわけで、物語の中で悪とか正義とかいう場合、それが奇をてらったものでない限りは、悪は孤独であり、正義には仲間がいる。これが、創作上の悪とか正義とかを定義する、最も簡単なものの1つであることは、疑うべきもない。

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