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保守は難しい。革新の方が簡単だ

 この、変化の時代に「保守的」になることが良くないのだと言われても、それを実感できないことは良くある。あるいは保守性と革新性のどちらかが善でどちらかが悪なのだと言われたところで、そんなもの場合によるとしか私達は思えない。
 実際、多くの物事が変化して、過去のものは通用しなくなっている今の世の中でも、「革新的」になることが無条件に良い結果を生むことはけしてないはずだ。
 そもそも私達は、この保守と革新と名付けられたなにものかのことを、実際にはよく知らない。

 1つの事実として、革新性は「いずこよりも発想されること」であり、しかし保守性は「後々に発想されること」という明確な違いがある。つまり、前者がどのような時と場合、状況条件においてもありえるのに対して、後者はある限られた条件が整わなければありえないということだ。
 より簡便に表せば、保守には「守るべきもの」が必要なのに、革新には「攻めるべき敵」しかいないのだ。これは、私達に人間の考え方と、言動の方法についてである。要するに、何かを守るために保守になるのだから、その守るものが出来上がるまでの時間が必要だということだ。一方で、私達が「個人」である以上、ありとあらゆるところに「敵」は存在する。革新性とは、それらとの差別化を図り、生き残ろうとする行為であるから、その動機はいつだってあるのだ。

※保守性によって敵を攻撃することについては、この場合には考えない。それは本来の「保守」とは性質が異なる革新的な行動だからである。また、このことから、敵がいたとしても保守性は働くということが証明されている。

 なんにせよ、重要なのは、私達が基本的に革新的に行動しやすいというところである。保守とはあくまで、そうすべき、内にある何かがなければなれないものなのだ。だから保守はスタンダードではない。それは後天的なものだとすら言える。
 けれど時として、私達はなぜか保守性を初めから持っているかのように勘違いしてしまう。それは保守が、その名の通り「守る」ものだからだ。守るというと必然的に、私達はこの今持っている自分の生命と、それを軸とした人生・アイデンティティのことが思い浮かぶ。だから保守は、私達1人1人の思想を守っているもの、そしてそうすることを「保守的」と言うのだと、まず真っ先に考えてしまう。

 実際のところ、保守的な生き方がそうであることは事実である。しかし、初めから持っているこの生命を守るのは保守性ではなく、本能であり知能であり周囲の協力である。保守性はそのためにあるのではなく、あとから、自身の内に芽生えた思想を守るために存在する。
 そのため、私達の出発点は革新性だ。保守性は年を経なければ獲得しえない。そのような意味では、保守は私達にとって、革新と比べると経験の浅い方法論ということになる。だから、保守的に振る舞う時には注意が必要なのである。善とか悪とかではなく、実のところ、保守は難しく、革新は簡単なのだと、そういう話なのだ。

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