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表現が金になる⇔金によって表現が生まれる

 表現は金になる。金は人生を続けていくためにとても必要なものだ。だから表現、つまり芸術とか、創作とか、遊びとか、そういった形で世の中に発信される表現は全て、その特別性がゆえに、金を稼ぐ対象になる。
 でも、そういった表現を金に換えることは、残念ながら無粋でもある。なぜならそういった表現とは、その人の人生のために行っていることでもあるからだ。人生の集大成。「人生というエキス」を集めて1つの表現となすこと。それが表現行為の特別性に繋がっており、価値があることなのだ。

 要するに表現とは、それだけで価値あるものであるところ、その価値に満足せずに誰にでも分かるような一般的な金銭的価値にしてしまうことが、無粋なのだと思われる。
 それは、金銭的価値がこの世の価値の全てなのだという考え方に異を唱えるものである。表現の価値と金銭の価値は別だと、多くの表現する人々は言いたいはずだ。なぜならば、彼らは人生をかけているから。あるいは表現が、人生そのものだからである。金銭的な価値は二の次であり、むしろ、そのような価値を付けられることは、表現を傷つけられることと同義だという人もいる。
 お金とは数字だから、その単純な優劣で測られるようなものではないという声である。

 だが、そのような人々にとっては非常に残念なことに、人間とは基本的に金銭的価値によって存在している。ありていに言って、お金が全てだ。私達はお金の結果としてこの世に生を受け、お金によって生かされ、人生を歩み、そしてお金によって死ぬ。つまり、人生はお金である。結局のところ、そうでない私達の時代はとてもとても昔まで遡らなくてはいけなくて、その時代は私達にとって暗黒の時代だった。
 その暗黒を取り払うためにお金が生み出され、私達の生の基準はそれになった。いわば黄金時代だ。それにより大きく変わったのは、私達の人生だけでなく、表現もそうである。暗黒時代に、多くの表現は手段であったものの、黄金時代にはそれは目的とすることができるようになったのだ。つまり「表現」は、お金によって生かされている。表現によってお金が生み出されるのではない。そもそも、表現活動はこの世の中でお金が巡るサイクルの中に、既に組み込まれているのである。

 だから、表現に、クリエイティブに、芸術に、パフォーマンスに、お金がつきまとうのは当然なのである。その数字としての金額が、それらの価値を示しているのではない。私達がそう認識しているだけで、付けられた金銭的価値は単なる市場の判断だ。つまり、お金によって生かされている人間としての、需要と供給の判断でしかなくて、その人生の値打ちを示しているのではない。
 そしてそもそも、表現とはお金の結果なのだ。表現がお金を生むのではない。お金が表現を生んでいる。純然たる、私達の人生の事実であり、避けようのない現実である。

 だから、嫌だと思ってしまう。人生を賭した表現を、金銭的価値で判断されることが、薄々、自分でも分かるから。無視しているだけで、その表現までの過程にお金から逃れられていないことを知っているから。表現者は、その点で特別性など持っていない。多くの人々と同じように、お金によって人生を歩んでいる。それを何か別のものにしたくて、表現という手段を選ぶ。
 表現と金銭の関係は、とても深く、だからこそ表現は人生の集大成だ。暗黒時代を過ぎ去った私達に、それを回避するすべはない。表現は常に金になる。そして金は表現になるのである。

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