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「わからない」をわかることは特別だ

 わからないことがわかるのは、人それぞれが持つ才能である。どれくらい、自分の「わからない」がわかるのか? そしてそれをはっきりと自覚できるのか? そういったことは、私達ひとりひとりが異なる尺度と感覚で判断する、ごく個人的なものである。
 だから、そこに当たり前はない。
 人によって、すぐに「わからない」に気づくこともあればそうでないこともある。そうでないからと言って、その人が劣っているということもない。なぜなら感覚は人それぞれだからだ。
 そこに当たり前はなく、努力や勉強でその感覚が変化するかは未知数だ。そもそもわからないの感覚に正解はない。もちろん、わからないよりもわかる方がいいという価値観は間違っていない。しかしより重要なのは、その先である。わからないならどうするのか。そしてわかるのなら何に繋げるのか。
「わからない」」をわかるとは、そのための感覚である。それが優れていると言われる人は、その先に繋げられる人だからなのだ。

 そのことを度外視して、単にわからないこと、そしてわかることを、その2つの尺度だけで考えてはならない。そしてその尺度は、もちろん、人によって違うのだということ、当たり前はないのだということもまた、私達は理解してしかるべきである。

 基本的に私たちは、自分のことこそ、「わからない」がわからないものである。むしろそのことをこそ当たり前だと思って、自分自身の価値観を問い続けるのが良いのではないか。

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