なぜ「現実教」を信じることが当たり前になってしまうのか?

 フィクションは「現実でないもの」という意味ではなく、「虚構」という意味だ。単なる「作られたもの」である。しかもそれは、「作られたものとしての」創造物なのだ。
 そこにはフィクションを成立させようとする現実的な意思があり、力が働いていて、なにより、現実に存在している。

 それにもかかわらず、フィクションには、「現実の代替品」というイメージが未だにつきまとって離れない。現実でなし得なかったことをせめて妄想として形にした、そういうものだと。
 いずれにせよ、その感覚に少なからず私たちは同意できるはずである。フィクションと聞いた時に、「現実ではないもの」「現実の代替品」だと決めつけようとする観念は、誰にだってある。

 なぜ、そういった認識を私達は持っているのだろうか。それは、この現実こそが虚構よりも優れていて、信じるべきなのだと思っているからである。つまり、現実こそが本当にあるべきものなのだと。挙行は嘘で、あってはならないものなのだと。
 言ってみれば、これは思考停止だ。そのように現実に起きていることこそ正しいと頑なな人ほど、まさに、目の前で起こっていることを信じようとしないのだから。

 現実がこそが正しいという認識に立った時、その現実とは「信じたいもの」でしかない。つまりその人は、けして現実を見たいのではないのだ。そうではなく、ただただ、自らが信仰する「現実教」にすがっていたいだけ。偶像的な(教義どおりの)「現実」。それを、それと信じることに盲目的であるだけなのだ。
 だからこそ、フィクションが現実を脅かすものだと感じる。信じていたい現実のことを、何1つわかっていなかったと明らかになることが、気恥ずかしくて言い逃れできず、受け入れられないだけである。

 この世の自然を見ればそうするほど、現実自体の方が、よほど私達の予想や信仰や仮説を裏切ってくる。ありえないと言うことが起こる。嘘だと思っていたことが本当である。それだからこそ、現実は妄想や虚構ではなく、現実なのである。

 勘違いしている。

 もっともらしいこと、論理的なことが起こるのが現実ではないということに。むしろ、人間という限られた知覚や知能しか持たない存在が理解できる範疇でしか現実が動いていかないのだとすれば、そんなものは現実ではないはずだ。
 全ての想像を、予測を、常識をこえてくるからこそ、裏切るからこそ現実なのだと考えなければならない。そのような世界に身をおいているのだと受け入れねばならない。自分だけの、あるいは身内だけの大層な現実信仰にすがって、それがあたかも未来永劫続くのだと考えることは、あなたを現実世界に生かしているとは言わない。あなたがこの世で生をまっとうしているとは言わない。残念ながら。

 フィクションは、だから、単に「虚構」という意味でしかないのである。それは「現実でないもの」ではない。どうあっても、それが現実以外にあるはずもない。そして「現実はこうである」と思えるようなおりこうな現実は、実際のところこの世には存在しない

 虚構と現実のことをそうやって考えると、この2つがまったく別々のものだというのは少し間違っていると思える。それらは互いに干渉する。フィクションと思っていたことは、現実に起こるし(それはそもそも現実だから)、現実的に思われていたことが、誰かの作り出したフィクションであることも大いにある
 そんなものである、もしくは、そんなものでしかないとすら言える。既に、私達が昔からありがたがっていた現実教は崩れ去っている。

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