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褒めるよりも貶める方が簡単なので。

 貶すことの簡単さはとんでもない。誰にでもできるというレベルですらなく、なんの因果がなくとも、関係がなくとも、知らなくとも、それが出来てしまうくらいには簡単だ。ただ、それは単純な作業という意味ではなくて、とにかく「考えがいらない」という話である。貶すという行為は、ありとあらゆる手段を含むものだが、一方で、褒めるという行為はずっと限られた方法でしかなしえない。
 どうしてかと言えば、貶すことは否定で、褒めることは肯定だからである。もっと言えば、貶すことは排他であり、褒めることは受容だからだ。何かを外側に押しやるという行為は、自分主体であって、そうする人が「そうできた」と思えばOKなのである。
 しかし何かを受け入れるということは違う。少なくとも、1度はそれを認めねばならない。それを理解せねばならない。それと対話せねばならない。なぜなら褒めることの主体は、実は相手にあるからだ。褒められた側が「そうである」と思ってくれなければ褒めることは成立しない。

 貶すことは自己完結的でもいい。でも、褒めることはその判断を相手に委ねなければならない。結果として、貶すはすごく簡単に誰でもできるけれど、褒めるはとてもそうではないということになる。

 だから、私達が精神的に、「簡単な存在」にならないためには、他者を褒めることを得意になるべきだ。他者を褒めることは、他者を理解したり、受け入れたり、対話したりというスキルを磨くことに繋がる。そのスキルは私達に、人間的な豊かさと経験値をくれるはずだ。
 それが多ければそうするほど、私達は人間として成長できる。というより、余裕のある精神を構築できる。なにせ、褒めるには他者を受け入れたり理解したりする度量が必要だからだ。そんな心の拡張を経験することは、私達の精神に余裕を持たせてくれるだろう。

 きゅうくつな人生を歩んでいると思える人は、他者を褒めることを考えてみると良い。それができなくとも、少なくとも他者を貶すことはこらえる。そんなものではなく、それ以外に時間を費やすことは、きっと有意義な人生の使い方のはずだ。
 無論、褒めるためには対象への理解や、(少なくとも1度)の受け入れが必要になる。それが嫌だということもある。絶対に認めることが出来ない存在や行為というのもある。そう思った時は、離れればいい。貶すのではなく、離れればいい。あるいはもっと、根本的な対処法があるはずなので、それを実行すればいい。

 少なくとも、簡単だからという理由で、貶すという行為を選んでしまうのは人生の損失である。それよりももっと、豊かで余裕のある生き方を手にするために、私達は褒めることに慣れていきたい。

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