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私たちはネガティブさに虜である

 この世のあらゆるものについて、必ずネガティブな面というのは存在するし、それを目ざとく見つけ指摘する人々も後をたたない。後をたたないというのは、それが受け継がれていくということである。人間が、いつからかこの「ネガティブ」のとりこになってからかなりの時間が経過したが、そのトレンドは弱まるどころかますます強くなって、私たちのお決まりの文句となっている。
 なにせ、ネガティブな意見というのは思いつきやすいし、言いやすい。特に自分以外のものや、自分が生み出していない、自分が関わっていないものに対して、人は否定的な観点で捉えがちだし、その「否定」は多くの他の人に響きやすい。何故なら、否定的な意見は単に「否定している」という事実のみで共感を得るからだ。反対に、肯定的な意見は具体的にどこを肯定しているかまで一致していないと共感を得にくい。
 だから、私たちは連綿と、この否定的な意見ーーネガティブさのバトンタッチを世代的に繰り返してきた。それは共感できるからだ。共感できるということは正しい。ほとんどそれだけの理由で、感覚的に、ネガティブ性は人間の備えている中でも優位の感覚となった。そしてそのことによりますます、私たちの感覚はネガティブへと寄っていった。

 今、ネガティブ感覚は、人類史のピークを更新し続けている。この共感性の強い言説は、私たちがいつでもだれとでもコミュニティを持ち、やり取りを活発化させ、良くも悪くも先鋭的な思想を持つようになって、その威力を増した。
 ネガティブさは「批判性」そして「慎重さ」の証と捉えられるようになったのだ。もしくは、ネガティブな意見を言うことは、より「賢い」「クレバー」「理知的」「先を見据えている」「良く分かっている」などの、その言説を論理的に信ずるに値する価値として、機能してしまっている、ということである。
 その理由は単純である。ネガティブさは間違いが少ないからだ。それは様々なものごとを否定することで、往々にして、「現状維持」を指す。だから、もし、ネガティブな意見が見当外れだったとしても、「現状」は担保される。誰の世界も壊れない。単に、いち早く利益を得るチャンスを潰しただけ。それならばそう致命傷ではない。
 そういう意味で、ネガティブさは間違いが少ない。加えて、必ず「共感」を得られるのもまた、魅力である。だから私たちは、ネット社会に住まうようになってより先鋭的に、ネガティブさを振りかざすようになった。そしてその共感者と追随者の狂喜乱舞の中で、人類の軌跡はますます、ネガティブさに埋め尽くされている。
 その記録が消えることはない。すると、ポジティブさの記録は脇に押しやられる。要領には限りがあるからだ。一度決まってしまったネガティブとポジティブのバランスは、そうそう平等にすることは難しいだろう。それくれい、ネガティブさは心地よいというのもあるかもしれない。自分に向けられたらたままったものではないが、少なくとも、自分が発信したり共感したりしている限りは、ネガティブさは私たちを心地よくしてくれる、甘い誘惑である。

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