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ちゃんと見てから否定しようと決意する

誰かを根本から否定したくなるときがある。
そのような考えは間違っているとか、それはあなたの人生においてのみ言えることで自分は違うとか、そのようなやり方では誰もついて来てはくれないだろうとか。

この世界に神がいるとすれば、すべての法則はその神が作るのだから、なにも疑う余地などないし、対立などするだけ無駄なのだと割り切れる。
しかし、残念なことにこの世には ”神” はいない。そう形容したくなる何者かはいても、恐らく、それは人類の誰かであって、いわゆる神などという圧倒的な超越者ではない。
だから結局、その人を否定し、拒絶し、間違っているのだと言うことはできてしまう。
本当にできるのかという問題は置いておいて、ともあれ、やること自体は可能なのだ。

だからこそ、誰かを否定したくなる心というのはなくならない。
否定すること自体は簡単で、しかも、そうすることで自分の見ていたくないものを見ないで済む。
それは精神的に楽だ。もしかすると、嫌なものを見ないことで身体の強張りもないし、緊張もほぐれるということで身体的にも楽かもしれない。
ともあれ、自分とは違うものや、受け入れがたいものを否定することは、いつもいつも、やってしまいたくなるのだ。

それを全く拒絶することは、自分にはできない。
そもそも、そのような心を否定すること自体が、自分の受け入れがたいものを単に拒否しているようで気持ちが悪い。
だから、そのような感情はあった上で、心持ちを変えなければならないのだと、そう思うのだ。

なにかを否定する心はなくせないし、ならばこそ受け入れるべきものだ。
そして多分、良くないのは「見ないようにする」ことなのだろう。
そうすることで楽なことは、大抵の場合、人間にとって毒だから。
見ないことが精神的にも身体的にも楽なのだとしたら、それこそ、拒絶すべき行為なのだ。

目をつぶらないこと。
現実を受け止めること。
実際にそれをするのは意外なほどに大変で、だからこそやるべきことなのだと思う。
本当に否定できるのは、ちゃんと見ているからこそだ。
誰か・なにかを根本から否定したくなるときは、まず、それを根本まで見てからにしたい。

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