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刹那になってしまった私達へ。

 時間にとらわれずに、ゆっくりと何かをし続けるということは、実際は難しい。それは、周囲から急かされるからとか、早く完成させないと怒られると思うからとか、他の人に取られてしまうからとか、そういう理由ではない。私達が今、何かにつけて「ゆっくりできない」のは、単に私達がそうできなくなっているからというのがもっとも大きな要因である。

 簡単に言ってしまえば「飽きる」ことの訪れは、年々早まっている。飽きるとは本来、悪いことではない。集中力の温存なのだ。飽きることで私達は、1つのものに固執することなく、労力をかけ続けることなく、色々な物事に対応するための術を得られる。そのような能力と言えるのだ。
 けれど、飽きることがとても早まった今、私達はむしろ、色々な物事へ目を配るための「余裕」すら忘れつつある。そしてゆっくりすることができないことを、無駄なことだからと言い訳するようにすらなった。

 何かに関わり続けることが難しくなってしまった後ろめたさを、私達は「無駄」という表現でごまかしている。それがこの時代のせっかちさである。情報は早くめぐり、その全てを知り、語り尽くし、そして次へ行く。するとあらゆるものが、最初からそのために作られるようになっていく。「早く」「速く」。そのために、それが可能なようにあらゆる物品は物事は事象は出来事は作られて、そしてすぐに消え去っていく。

 私達は刹那になった。心には少なくとも、永くあり続けるものをもう持てる忍耐はない。いつの間にか、そうして何かをじっくりと持ち続けること、繰り返すこと、向き合うことは、そうでないことよりも蔑ろにされている。
 はやくしなければならない。その焦燥感はどうしてくるのだろうか。競争。それは誰によって始められたのだろうか

 そのことが全くわからないまま、私達はただ、走り続けている。常に、新しいものへ向かって。

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