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【書籍化note一部公開‼‼】『誰も知らない夢の果てから』

 この度私がnoteで書いたエッセイ『誰も知らない夢の果てから』を書籍化することにしました!朝日新聞に広告が載り、ジュンク堂や紀伊国屋、Amazonから購入できるようになりそうです!やったぜ!

 無名の素人の哲学本なので、正直売れる気があまりしないのですが、できれば多くの方に手に取っていただき私の議論について考えていただきたいので、ここにエッセイの序文とその一部分と目次を掲載しようと思います!

 一定以上販売が伸びれば印税が発生するようなのですが、私の目的は印税ではないので、私に受け取る権利のある印税が発生した場合は全てUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に寄付される予定です。

 以下序文と議論の一部分、「2-5-1.<比較尺度>の誕生」を掲載します。かいつまんで言うと、クロード・シャノンの情報理論をベースにした情報と関係の哲学の概要と、経済学者である岩井克人の『貨幣論』、文化人類学者グレゴリー・ベイトソンの「天秤」に関する議論、ループ量子重力理論の提唱者である物理学者のカルロ・ロヴェッリの「時間」に関する議論を比較検討するというものです。

 2024年8月ごろに本は完成する予定です。販売ページや書影などはまだありません。沢山売れれば、国際的な社会貢献になります!よろしくお願いしまーす!

序文

 その概念の重要性にも関わらず哲学の問題として、「関係」に焦点が当てられるということは――浅学な私の知識は当てにならないけれど――あまり多くはなかったのではないかと思う。

 私の知る限りでは、エルンスト・カッシーラーが『実体概念と関数概念』という本で主題に近いテーマとしてそれを取り扱っている。しかし、それも科学の発展を実体概念から関数概念への発展と考えるというもので、「関係」それ自体はそもそも一体何か?という問いを提起するものではなかった。

 本稿では「関係」とは何か?という問いとその概念といくつかの分野との関連について論じる。それが知にとって、根源的な問題であると私は考えるからだ。

 「関係」とは何か。端的に結論から述べるとそれは人間にとって「知」そのものであり、人にとっての世界の形式そのものである。「知識」とは、「世界」とは、種々の「関係のネットワーク」なのである。なぜそう言えるのか。

 私たちが何かを「知っている」ということを最もシンプルな、原理的な形で表すと「正解を選択できる」ということだと言える。例えば四択クイズやなぞなぞなど知識を測るテストの最もシンプルな問いと答えを考えてみてほしい。

 「2×2は?」という問いで「4」を選択できれば、その人は九九を知っていると言え、他のもの、例えば「5」を選べばそうでないと私たちは判断するだろう。問答の相手に悪意があるなどの特殊なケースを除き、正解を選択したとき、「知っている」と判断でき、そうでないとき「知らない」と判断できる。

 これは、言い換えれば「答えの候補という集合」から一つの「要素」を取り出すことだといえる。まぐれなどの例外はあるが、人は適切な要素を取り出せたとき、それを知っていると判断するだろう。

 その基本的な原理、「知っているということ」は「正しい選択ができるということ」であるということは、論述であったとしても基本的には変わりない。例えば「夏目漱石は人間である」という命題は、文中の名詞が一般的な用法をされているとき、真とみなされるだろう。その語の選択の一部を変えて「夏目漱石は猫である」とすると、誤りになる。語の選択は文全体の命題の意味を確定させ、その真偽を決定する変数となる。これはあらゆる命題に拡張可能なことだと思う。

 さきのクイズと同じく、命題においても「正しい選択」が「知っている」ということを識別することの判断基準となるのである。ただし、問いにも依存するが、真となるかそうでないかには真とみなせる許容範囲に幅が出てくる(例えば「人間」を「人」に変えてもその文の価値は異なるものの、同様の意味、真偽を私たちは読み取ることが出来るだろう。)。少なくともこの「選択の連なり」が真偽を確定するのである。

 選択の連なりが全体の正しさや意味を確定するということ、それは文と文の連なり、論と論の連なり、文脈と文脈の連なり、どこまで階層を高めていっても同じ仕組みを持つ。その最も基本的な単位はそのような構造を持ち、あるいは例えば「文脈によって意味が変わる」ということはそれを端的に示すものだ。言葉の意味は「選択の連なり」の中に存在する。それは逆に言えば「連なり」が果てるまで、私たちは「何かの意味」を完全には理解することが出来ないということでもある。

 そして、そのような「選択の連なり」、それに名を与えたものこそが「関係」に他ならない。実際様々な「関係」というものについて考えてみると、その本質が「選択の連なり」にあることを我々は知ることが出来るだろう。

 例えば「親子」という関係について考える。完全に普遍的な例とは言えないものの、家族間において、一般的に子を生んだ者と子の間は「親子関係」があるといえる。「親子関係」はこの二者の選択によって見て取られる。例えば、それは子と他の子の間には見て取られず、その二者間は「兄弟」ないし「姉妹」という関係とされるだろう。例えば絶縁というものがあるため、現実の個々の関係を見ていくとこの事例が完全に普遍的なものとはいえない。しかし、一般的に言って親族関係にあるメンバーのうち、二者を取り出せばその「関係」が確定する。

 あるいは相関関係の有無もそうだ。ある一方の値が他方の値に連動するとき、私たちはそこに相関関係を見る。それは値の「選択」の連動と見ることができ、その二者の選択のあいだに関係が見て取られる。さらにはそこに「原因と結果」を見て取れたなら私たちはそれを「因果関係」とみなすだろう。あるいは、その二者を変えた結果それらが連動していなければ、逆に私たちはそれらを「無関係」とみなすだろう。それもまた一つクラスが上の関係ではあるが。

 もしも以上の関係の定義を疑問に思うのであれば、何らかの二つ以上のものの間にある関係を実際に思い浮かべてほしい。そして、あなたの選んだ関係を取り巻くその二者以上のものの選択に、その関係の本質が依存しないかどうか考えてほしい。「関係」、あるものとあるものの間に結ばれるそれの性質が、それをとりまく指定された項に依存しないということは原理的にありえない。「関係」は「選択」の間にあるのである。

 そして、このような「関係」や「選択」は「知」の本質である。これに関する私の議論の最も基本的な原理的基礎は情報理論の情報量の定義に則っており、そのシンプルな例の一つとして「ものさし」を例示することが出来る。

 情報理論における最も基本的な意味での情報量という概念は、「複数の状態のなかからある状態が発生する確率」として表現される。それは取りうる値の集合から何かが選択される際の、「選択の予測のしづらさ」を表現している。私の理解では、これは「わかる/わからない」という事態を端的に表現し、かつそれを量的に測れるようにするということを行っている。

 情報量の定義は「わかる」ということは「選択肢の中から正しい選択ができる」ということであり、選択をそこから行う「選択肢の集合」にある選択肢の数が多ければ多いほど、さらにどれが選ばれやすいかの傾向を知っていないほど、「わからなさ」の量は大きく、かつそこから「正しい選択」ができた時、その価値は大きいということを発見し、表現している。これによって「知」のある種の量的な測定方法を定め、さらには「知」そのものの本質、選択を情報理論は発見したのだと私は考える。

 このような知の本質を知るための最も卑近な例の一つとして、「ものさし」を挙げられる。私たちがなぜ「ものさし」を使用するのかを考えれば以上のことは容易に理解できる。私たちはある対象の長さを知らないため、つまり「1cm,2cm,3cm…」という値の配列の中のうちどれかを「知らない」ために、それを使用する。そしてそのことによってどの値が選択されるかを「知る」。あるいは、一般的には「5cm」とわかっているものに再度ものさしを当てる必要はないのである。「知る」、「知っている」ということは「取りうる値の中からの選択」をその最も基本的な原理とするのである。

 そして、このように「知」の本質を定義すれば、「知識」が「関係」、選択の連動であることが理解できる。つまり、一つの情報=選択が次の情報=選択と連動しているとき、その「関係」をたどっていくことは「知識」を増加させるということに他ならないということを。知は関係のネットワークなのである。

 情報によって世界を知る人間はその知の原理を超えることはできない。それは感覚器官、計測機器、言語、どのようなレベルにおいても同じ構造を持つ。故にそれは世界の形式との区別がつかず、人はそれを世界の形式と見るほかない。

 「選択」と「関係」はあらゆる知という知について、この世界について、その一般的な形式とみなすことが出来る。私はそう仮説を立てている。関係とは「世界の形式」なのである。関係と情報(information…形作ること)、それは形式の中の形式、いわば形式の王といえる。

 また、このようなことは、知一般に関する形式的な議論のみならず、ある種の宗教が繰り返し説いてきたことやいくつかの既存の哲学のトピックにも関連する。本稿では以上のような議論をより詳細に、「関係」という概念をめぐり、いくつかの分野について述べていく。

 具体的には、2章においては情報の世界、知の領域におけるそれについて、3章については物理的な世界、社会や政治、生態系の領域におけるそれについて、4章においては問うこととそれとの関連について、5章においては科学と宗教の真理との関連について、それぞれ論じていく。

~~本文抜粋~~

2-5-1.<比較尺度>の誕生

 <比較尺度>について私が語るにあたって参考にするのは、岩井克人による『貨幣論』である。貨幣は最も日常的に使用されている<比較尺度>の一つと言ってもいいだろう。岩井克人が『貨幣論』において、その発生をモデル化して述べていることは、貨幣のみならず<比較尺度>の誕生一般に拡張できる関係性を持っている。

 『貨幣論』における岩井克人の議論の要約は以下のようなものである。
 貨幣はただの商品とは異なり、特権的に他の多様な商品、リンネル、上着、茶、コーヒー…etcとの交換可能性を持っている。そして、貨幣はそのような交換可能性を持つ限りにおいて市場経済を維持する貨幣たり得るのである。

 なぜなら、人が貨幣を貨幣として他の人に渡せるのは、それが他人の持つ商品と交換できると信じているからであり、逆に他の人が貨幣を貨幣として受け取るのは、それがまた別の人間の商品と交換できるからであり、その別の人間が貨幣を貨幣として受け取るのは、さらに別の人間が貨幣と商品を交換するからであり…と無限に続く。故に例えばハイパーインフレーションなどで貨幣が商品と交換できないただの紙屑や金属片、電子情報に変化してしまうと貨幣は貨幣としての地位を失う。

 ここから貨幣が貨幣であるのは、それが万人によって貨幣として扱われるからであり、貨幣の存在の根源には、無根拠な循環論法があると結論される。

 このような特権的な交換可能性を持つ貨幣が出現するのは、物々交換による交換は、かなりの非効率性を伴うものであるということが一因として挙げられる。貨幣が存在しなければ、交換――交換を行う人々がものに対して抱く価値の一致――は困難になる。

 それを説明するために、極めて単純なたとえ話を例示しておく。

 貨幣のない世界で、農村に住んでいる野菜しか持たない人が魚を欲しがっているとする。しかし、漁村に住む魚を持っている人は工業製品であるシャツを求めている。その場合、両者が交換を成立させるためにはシャツを持っていて、野菜を欲しがっている都市に住む人がそれを媒介するという事態が必要となる。

 現実には生産者と消費者のニーズのうち、彼らの所有している交換可能なものが一致しているということはあまりないだろう。貨幣が存在しなければ、あらゆるものの交換について、このような奇跡的な媒介者が幾人も必要となる。

 貨幣はこのような非効率性を回避するものとして生まれてきた。これは実際の誕生の過程ではないが、その合理性を説明するモデルとして、以上のようなことが考えられる。これが貨幣論のあらましである。

 そして、このような論理は、<比較尺度>一般に拡張することができるものなのである。どういうことか。そのために『天使のおそれ』におけるベイトソンの議論を見てみよう。彼はこのように述べている。

 科学者にたずねれば、たぶん天秤とは重さを測る装置だと答えるだろう。しかし、わたしにいわせると、ここにまず第一の誤謬がある。真ん中に支点があって両端に皿のついたふつうの桿ばかりは、基本的に重さを測る道具ではない。それは重さを比べる道具なのだ。これはかなりちがう。天秤は、比べるものの一方の重さがすでにわかっている(あるいは定義されている)ときはじめて重さを測る道具になる。いいかえれば、科学者が重さの測定をうんぬんするには、天秤だけではなく、天秤にもうひとつ何かがつけ加わらなければならないのである。

 だがこの追加を行なうと、科学者は非常に深い意味で天秤の本質から離れてゆくことになる。天秤という道具のもつ基本的な認識論的意味を変化させてしまうのだ。天秤自体は重さを測る道具ではない。それは重さがてこの作用でおよぼす力を比較する道具である。枠がてこの役目をしていて、支点の左右の棒の長さが等しく、両方の皿にのったおもりが釣り合ったとき、おもりどうしに重さの差がないということができる。天秤が告げる内容をもっと正確に翻訳するとこうなるだろう。 「左右の皿にかかった重さの比が一である」。わたしがいわんとしているのは、天秤が基本的に比率を測る道具だということ、差を測る道具としてのはたらきは二次的なものにすぎないということ、そして、その二つはかなりちがった概念だということなのだ。差に眼をむけるか比に眼をむけるかによって、われわれの認識論全体がちがった様相を呈してくるだろう。

G.ベイトソン、M.C.ベイトソン「Ⅴ 超自然論でもなく機械論でもなく」 『天使のおそれ 聖なるもののエピステモロジー』 青土社 1992年 星川淳訳 p111

 ここでベイトソンが議論していることは、私が今まで議論してきた「比較」という行為について、極めて重要な示唆をもたらすものだ。彼に言わせれば「比べること」と「測ること」の間には重要な差異がある。その差をうめるのに、ベイトソンは「天秤に付け加えられる何か」が必要だと述べている。

 この時、ベイトソンが述べた「天秤に付け加えられる何か」とはいったい何だろうか。それは以下のようなことだと私は考える。

 ベイトソンの言うところの比率を測ると差を測るの違いを探るにあたって考えなければならないのは、天秤において「比べるものの一方の重さがすでにわかっているとき」というのはどういう状態かということである。

 つまり天秤だけを用い単位を定めると仮定して、それに何が必要か考える。それには、ある基準となる重さのものを用意して、それと他のものを何度も天秤にかけて、釣り合ったものを多数準備することが必要だろう。そのことによって、「初めの重りとそれに釣り合ったもの」を単数ないし複数組み合わせて、さらに他のものを比べることで、それが「初めの重り」の何個分かがわかる。つまり<単位>が生まれ、その集まりとして<比較尺度>が生まれる。

 このことが示すのは何かを「測ること」に必要なものは「同一性のある単位として使用できるものを複数ないし単数個使って比べることを続ける」ということであり、それが「比べる」ことを「測る」ことへと昇華させ、変化させるということだ。これにより、多様な個物間の示差関係が一つの<単位>における差異へと中心化されるのである。

 そして、これが比べるものの一方の大きさが「わかっている(定義されている)」ということである。だから、それはそれを持って<単位>として「測る」ものについては何も語らない。私は認識全体を見たときにも「わかっている」という状態が根源的にこのようなものでしかないのだと思う。先にも述べたように、指し示すものと指し示されるものが分離しているならば、それは「何かと何かの連動」、「関係」以外のものではないのだから。

 これがなぜ岩井克人の『貨幣論』と結びつくのか。それは<単位>の成立とその過程が、貨幣の誕生と同様の論理構造をしているからである。これは後者が前者の一つであることを考えれば不思議なことではない。さらに言えば、貨幣の3機能、「尺度」「交換」「保存」は貨幣の機能の本質である以前に、そもそも十全な情報の機能の本質であり、貨幣は情報という集合の特殊な要素である。

 貨幣論と<比較尺度>を比較すると下記のようになる。ベイトソンの言葉でいう「比率を比べている」状態、中心化された単位がなく、ばらばらに天秤で個物同士の重さの比率を測っている状態、これが物々交換を行っている状態である。そして、その過程が積み重なり、一つの安定した重りを見つけたとき、それが貨幣が誕生した状態とパラフレーズできるということだ。

 しかし、このようなパラフレーズは貨幣の無根拠性と相反するのではないかというかもしれない。貨幣の無根拠性に対し、<比較尺度>は物理的な根拠を持っていると。確かにそうかもしれないが、しかしながら、『貨幣論』の循環論法を比較したとき私は別の考えを持った。

 『貨幣論』をこれとパラフレーズした場合、その循環は寧ろある特定のタイプの「根拠」そのものの構造を表すようになるのではないかと考えたのだ。「根拠」は三段論法のような線形の論証の準備として与えられるものである以上に、俯瞰すればそもそも循環性を持つ知の営為のサイバネティックなループの一部である。故に『貨幣論』の循環論法と親和性が高いのではないかと。

 つまり、<比較尺度>は「差異ある測定対象の同一性」を根拠とし、「同一性のある測定対象の差異」は<比較尺度>を根拠に測定されるといったふうに。<比較尺度>や<単位>はそれを使用していると、それ自体あるように見えるが、それらも決して現実の世界の環境から乖離して根拠づけられるものではなく、その機能連関に支えられるものなのだ。

 以上の議論は様々な<比較尺度>に関して言える議論だ。たとえば、私はカルロ・ロヴェッリが時間について以上に述べてきたことと同様の関係性を指摘していると思う。

 古典物理学のほとんどの方程式には時間が登場する。慣習的に、変数としての時間はアルファベット「t」で表現される(tはtimeの頭文字である)。古典力学(ニュートン力学)の方程式は、事物が時間のなかでどのように変化するかを教えてくれる。過去の時間になにが起きたかを知っているなら、未来の時間になにが起きるかを予見できる。わたしたちが、ある物理的な変量(たとえば、ある対象の位置Aやある振り子の振り幅Bや、ある物体の温度Cなど)を測定したとする。すると、方程式はわたしたちに、これらの変量A、B、Cが、時間のなかでどのように変化するかを教えてくれる。関数A(t)、B(t)、C(t)は、時間tにおいて、これらの変量が初期状態と比較してどれだけ変化したかを描写している。

 地上の物体の運動は、時間の関数A(t)、B(t)、C(t)によって記述される。そのことを最初に理解したのが、ガリレオ・ガリレイである。ガリレオは、この関数を表現する方程式を編み出した。科学史における最初の物理法則は、ガリレオが発見した落体の運動をめぐる数式である。ガリレオの方程式は、物体の高さxが、時間の変遷とともにどのように変化するかを表わしている(x(t)=1/2at²)。

 この法則を、まずは発見し、のちには証明するにあたって、ガリレオは二つの要素を測定しなければならなかった。つまり、物体の高さと、時間である。時間を測るには、当然ながら、「時計」が必要だった。

 ガリレオが生きた時代に、正確な時計は存在しなかった。だが、まさしくそのガリレオによって、正確な時計を設計するための鍵が発見される。ガリレオは若かったころ、同じ振り子が一度揺れるのに要する時間は(たとえ振り幅が狭まっても)つねに同一であることを発見した。したがって、振り子が揺れる回数を数えるだけで、時間は簡単に測定できる。現代のわたしたちからすると、当たり前の話に思えるかもしれない。だがガリレオ以前は、誰ひとりこの方法に気づかなかった。科学とはそういうものである。

 ただし、事はそう単純ではない。

 伝承によるとガリレオは、絢爛たるピサの大聖堂のなかにいるとき、時間の測定方法を直観したらしい。彼はそこで、吊り下げ式の巨大な燭台がゆっくりと揺れる様子を観察していた。その燭台は、今日でも同じ場所に吊り下がっている(ちなみに、この伝承は虚偽である。というのも、件の燭台が大聖堂に吊るされたのは、ガリレオの発見よりも後の出来事だから。とはいえ、魅力的な伝承ではある。または、確かなことはいえないが、この燭台が吊られる前にも別の燭台がぶら下がっていたのかもしれない……)。 ガリレオはミサのあいだ、司祭の言葉ではなく、燭台の動きにばかり気を取られていた。燭台の振動を見つめながら、ガリレオは自身の脈拍を数えていた。ガリレオは興奮を覚えずにいられなかった。というのも、一回の振動につき、脈がつねに同じ回数を打っていることに気づいたからである。燭台の動きが遅くなり、振り幅が小さくなっても、一度の振動のあいだに脈打つ回数はまったく変わらなかった。ガリレオはこの観察をもとに、振り子の一回あたりの振動時間はつねに一定であると推論した。

 たいへん魅力的な物語である。だがよくよく考えてみると、すっきりとしない気持ちがあとに残る。そしてこの違和感が、時間をめぐる問題の核心を形成している。違和感の中身を言葉にするなら、次のようになる。「ガリレオはどうやって、脈の打つ時間が一定であることを知ったのだろう?」

 ガリレオからさして時を経ないうちに、西洋の医師たちは治療の一環として、患者の脈拍を数えるようになる。そのとき医師が時計として利用していたのは、ほかならぬ振り子であった。要するに、振り子の振動が規則的であることを確かめるのに脈を利用し、脈が規則的であることを確かめるのに振り子を利用しているわけである。これは循環論法ではないのか?この事態はいったいなにを意味しているのか?

 振り子の振動時間を測っているときも、脈が打つ時間を測っているときも、じつのところわたしたちは、「時間そのもの」を測っているわけではない。わたしたちはつねに、振動や、脈拍や、そのほかさまざまな物理的な変量A、B、Cを計測し、しかる後に、ある変量と別の変量を比較している。つまり、わたしたちが計測しているのは、A(B)、B(C)、C(A)といった関数である。わたしたちは、一回の振動ごとに何回の脈が打つかを測ることができる。腕時計の針が一目盛り動くたびに、振り子がどれだけ振動するか測ることができる。鐘楼の大時計にたいして、自分の腕時計の動きがどれくらいずれているか測ることができる……万物を支配する「真の時間」として、変数tが存在すると想定することは有益である。しかし、わたしたちはこの変数を、直接には計測できない。物理的な変量をめぐるあらゆる方程式は、この「観測できないt」を軸にして書かれている。これらの方程式は、tの値の変化に伴い、事物がどのように変化するかを教えてくれる。一回の振動に要する時間や、一回の動悸に要する時間は、変数tを含む方程式によって算出される。ある変量から見た別の変量の変化(たとえば、振り子が一回振動するあいだに脈が打つ回数)を計算するには、こうした方程式を利用すればよい。わたしたちは、そうして得られた計算結果を、現実の世界から引き出された観察結果と突き合わせる。計算による予測が観察結果と合致したなら、この入り組んだ図式は正しく機能していると推定できる。そして、たとえ直接に計測できなくとも、時間を変数として利用することは有益であるという結論にいたるだろう。

 言い換えるなら、変数としての時間とは、観察から導き出された結果ではない。それはあくまで、仮定のうえでの存在である。

 こうした点を、ニュートンは完全に理解していた。変数としての時間を設定することの有効性を見抜いた彼は、時間と物理的変量をめぐる図式を明快な形に整理した。ニュートンは自著のなかで、次のように断言している。わたしたちには、「真の」時間を計測することはできない。しかし、それが存在すると「仮定」すれば、自然を理解し描写するにあたって、きわめて有効な図式を組み立てられる可能性がある。

 ここまでが、量子重力理論について語るための地ならしである。あらためて、先ほどの問いを取り上げてみたい。「時間は存在しない」という主張は、いったいなにを意味しているのか? 答えは次のように要約できる。きわめて小さな事物を相手にするとき、ニュートンの図式は機能しなくなる。ニュートンの図式はたいへん役に立つが、スケールの大きな事象にしか当てはまらない。

 わたしたちにとってなじみの薄い領域を含め、世界をより包括的に理解したいと望むのなら、わたしたちはニュートンの図式を手放さなければならない。それ自体として流れゆき、あらゆるものがそれを基準に展開していく時間という概念は、量子の世界では有効性を失う。万物が時間のなかで展開する方程式では、この世界を記述できない。

 わたしたちがなすべきことは単純である。わたしたちは、自分が「本当に」観察している変量だけを検討し、そのうえで、これらの変量の関係性を記述しなければならない。つまり、A(t)、B(t)、C(t)などといった、実際には観測できない「時間t」を含む数ではなく、A(B)、B(C)、C(A)など、変量と変量の関係を表わす方程式を記述すべきなのである。

 ここで、脈拍と燭台に話を戻そう。これから先、わたしたちの考察の対象となるのは、「時間のなかで変化する」 脈拍や燭台ではない。わたしたちにとって重要なのは、「一方が他方にたいして」どのように変化しうるかを示す方程式である。こうした方程式は、鼓動が脈打つ時間tや、燭台が振動する時間tについては語らない。わたしたちが記述すべきなのは、燭台が振動するあいだに何回の鼓動が脈打つかを、時間tについて言及せずに直接に示す方程式である。

 「時間のない物理学」とは、時間について言及せずに、脈拍と燭台についてのみ語ろうとする物理学である。

カルロ・ロヴェッリ 脈拍と燭台――ガリレオの時間 第7章 時間は存在しない第3部 量子的な空間と相関的な時間 『すごい物理学講義』河出書房 2017年 p177-181 竹内薫監訳 栗原俊秀訳

 彼が述べているのは、時間というものが「あり」それが万人に流れているというのではなく、この世界におけるすべての「変化」を私たちは「時間」と呼んでいるということだと思う。

 それはいわば観測者自身もその「時そのもの」の一部である中で何かと何かを比べることでしか理解できない――まさしく循環論法のようなしくみで――ものだということであり、古典力学の時間tは「実体」の「存在しない」、その「すべての変化」を仮に中心化して基準とするために生まれる。

 これはまさしく、「労働力」という価値の「実体」をマルクスの価値形態論から取り去った岩井克人と同様の仕事を、古典物理学に対して行っているのだと思う。

 岩井克人が物々交換から貨幣の謎を解き明かす方向に向かうのに対して、カルロ・ロヴェッリの仕事は逆で、古典力学の時間から離れてループ量子重力理論によるミクロな時間の解明に向かう方向性にある。それでも、岩井克人の議論とカルロ・ロヴェッリの議論は切り口が違うように見えて、本質的に同様で<単位>、<比較尺度>の誕生、実体の解体にまつわる議論なのだ。

 いわば、彼らは「実体」に見えるものが関係論的にいかにして生まれるか、「実体」に見えるものがいかにして関係の集積でしかないかということについて述べている。

 ループ量子重力理論についてはこれからの進展により変わる可能性があるかもしれないからそれが正しいと断言はできないが、このような議論はある程度の正しさを持っているのではないかと思う。

 このような貨幣と類似した関係性が時間に見られることもまた不思議なことではない。時間は人が否が応でも測らざるを得ない<比較尺度>のうちの一つであるから。

 以上の述べてきたような「物々交換」から「貨幣の誕生」ないし、「比べる」から「測る」への移行に、ある種の合理性の発達を伴うことは明瞭に理解できると思う。個物を個物で処理するのではなく、中心化された特権的な個物、<単位>を定めておくことに。それと他の個物を「比べる」と、その<単位>が共有される限りで、さまざまなことが「わかる」ようになるのだ。

 この合理性の重要性は、距離を<単位>なしで測ることを考えればわかりやすい。「1cm」などの<単位>なしでものの長さを伝達しろと言われれば、いかに生活が不便になるか容易に理解できるだろう。その世界では、距離を示すのに「私の家からあなたの家まで、ごぼう100個となす200個とトマト300個とリンゴ250個ぶんだ」などという会話になってしまうのである(正確にはごぼう100個とも言えない、なぜなら同じもので比べると、それは<単位>になってしまうから)。

 もちろん、このような<単位>の中心化過程は現在進行形のプロセスである。より同一性が担保された<単位>にたどり着くには貨幣に例示されるようなさまざまな試行錯誤と紆余曲折があり得るし、それは現在も進行している事象だということだ。

 かくして、<単位>、貨幣は種々の商品や個物という、多様な差異を持つ他の事物を同一のものと比べるという仕方で一元的な方法で処理し、その差異を比較可能な対象へと変える。それが存在するとしないとで、認識の世界は本質的に変化するのである。

~~本文抜粋終了~~

目次

1.はじめに――知の根源的問題

1-1.プラトンのイデア論とベイトソンの情報の定義

2.知としての関係

2-1.情報理論が発見したもの

2-1-1.情報理論における情報の定義

2-1-2.感覚器官、言語

2-1-3.独我論の決定不可能性

2-2.比較、関係、知識

2-2-1.比較

2-2-2.関係

2-2-3.知識

2-3.正しさと比較行為の相対性

2-3-1.正しさの相対性

2-3-1-1.正しさと比較

2-3-1-2.単純な問いへの正しさ

2-3-1-3.演繹、条件による正しさ

2-3-1-4.帰納の正しさ

2-3-2.比較行為の相対性

2-3-2-1.比較可能な対象の相対性

2-3-2-2.知識(言語情報)における情報の相対性

2-4.情報の有用性と比較の論理階梯

2-4-1.情報の有用性

2-4-2.比較の論理階梯

2-5.知の貨幣――集合合理性について

2-5-1.<比較尺度>の誕生

2-5-2.集合合理性

2-5-3.イデア論の夢

2-6.比べえぬもの

3.世界のかたち、世界におけるかたち、「よい」と「悪い」の織りなすかたち

3-1.善悪の判断はなぜ必要なのか

3-1-1.行為と影響の形式

3-1-2.「かたち」を作る「善」と「悪」

3-1-3.「よい」と「悪い」の相対性

3-2.善悪と自由の論理階梯

3-3.世界という風船の箱

3-4.善悪が入り乱れる世界に残るもの

4.大いなる問答過程

4-1.ないものを問うことへの問い

4-2.問いの形式

4-3.問い/答えとしての存在者

4-3-1.問いとしての存在者

4-3-2.答えとしての存在者

4-4.ないものを問うことと禅問答

4-4-1.問いは常に「ないもの」を問う

4-4-2.禅問答のアポリア

4-5.超越への問い

5.科学と宗教の未だ別れざるところ

5-1.科学の真理、関係の真理

5-2.宗教の真理、関係の外部、存在の真理

5-2-1.宗教の真理の基礎的原理とその事例

5-2-2.「関係の外部」とある種の哲学との関連

5-3.科学と宗教の未だ別れざるところ

6.終わりに――夢の果て、その先は…

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