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創価的な父性がいる


創価的な父性がいる

創価的な父性がいる。いた。
それはカリスマ的な人や物を賛美、自己陶酔させる。
その現象を周りに働きかけては、時に思考停止させる。
疑問を持たせようとさせない。

この崇拝性からズレると、排他的に排除しようとしてくる。そして物を楽しもうと言ってくる。
彼等はカリスマ的な人間を中心として関係が作られている。そして人が「生きているトーテム」となり、自身のイデアを形を変えて働きかけては語る。その経験の現場が沖縄ほにやだった。

創価と沖縄ほにやの二重性。そして沖縄の地域性に立っている。

創価の大先生は、全国の会員が中継で視聴している本部幹部会で自分の側近をこき下ろしていたそうだ。昔、知人に誘われ、創価のミサに行ったときに、聞いたことがある。幹部の誰かが池田に軽く叩かれているシーンだった。

理想とハードル

創価も沖縄ほにやも前向きな理想ばかり言ってた。
前向きな理想。「踊りを楽しむ」、「笑顔で踊る」。

今思えば、ハードルの高い理想が多すぎた。
理想は高すぎるくせに、リーダーの理想はあっても中身がない。なかった。
あっても、頭の中である部分で思考停滞してた。

運営でこれだ。
踊りでも女たちは楽しむ事のみしか言わない。
女たちにとってこの話は共感するものであっても、私には満足のいくものでなかった。理論やコンセプトや観念について具体的に語ってなかった。
理想に共感しないと女たちはヒステリックになってた。

思えば客観的な理論はなかった。
思えば、入った当初、女たちはこの団体内で恋が芽生えたらよいと理想を語っていたが、よりよくは実現していない。

同僚の一人が女性のメンバーと恋に落ちたが、結果、デキ婚になり、数年後に離婚した。飲み会の時に結婚が決まっていたが、デキ婚の為かその同僚はどこかやけ酒だった。

私自身も違う件で恋を志向してたが、失敗した。
頼ろうとして、破綻した。この団体の背景を思うと、ハードルの高い理想に影響を受けすぎたのだろうと思った。
この団体は自分たちの理想と違う対象に対して冷たいだけだ。自分らに相当するレベルになると態度を変えるのみで、異文化に寛容に見えても、寛容でもなかった。これもリーダーのみの理想だった。主張しただけの。

そして、踊りの件ではよく見られたい理想もあり、励ましあっていたが、踊りの条件にのみ限定されたのみだった。
それ以外には冷たかった。自分にとっては。

創価的な父性とはなんと排他的で寛容な事か・・・・・





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