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いつだって、幸せです。

「あなたは今、幸せですか?」

こう聞かれると、私は一瞬、うーんと悩んでしまいます。

不自由は感じないけど、
今の自分に満足かと聞かれるとそれも違うような気がするし、
でもじゃあ
何ができたら、何を得たら、何を達成したら、
私は幸せになれるのだろう?
そう考え出すとキリがなくて。


現状に満足している=向上心がない、と思われそうで
なんだかハングリー精神を捨てきれないでいます。

でもよくよく考えれば
日々の幸せはちゃんとキャッチできているわけで。

例えば、
私は夕方、綺麗なグラデーションの空を見ると
涙が溢れそうなほど幸せを感じます。
生まれてきたことを祝福されているような気さえする。
なので運が良ければ7日に5日は幸せ。笑



そんな風にして、
人の数だけ、幸せのカタチがあるんだと思います。


ふかふかの布団で寝るときに幸せを感じる人。
営業成績が社内トップになったときに幸せを感じる人。
理想の相手とデートしているときに幸せを感じる人。
美味しいご飯を食べたときに幸せを感じる人。
美味しいご飯を作れたときに幸せを感じる人。


幸せのコップが小さければ、すぐに幸せは満タンになるけど、
それが大きければなかなか幸せにはなれない。
たくさんの幸せ、大きな幸せがないと、その人はずっとずっと
満たされないかもしれない。

そう思うと、
空が綺麗で幸せ!なんて自分は恵まれてる、と思っていました。
今日も3食ご飯が食べられて、寝る場所があって、
そういう最低限度のことが整っているから
空の綺麗さにも感動していられるんじゃないか?って。



でも、違ったんですよね。
それを父から言われて気付きました。

「どんなに美味しいご飯を食べてて高級マンションに住んでいようと、
空の綺麗さに気づかない人はたくさんいるよ」
と。

なるほど。確かに。

今の自分の幸せの感受性は、今の生活レベルに担保されている、
そう思っていたけど、
そっか、それは違うんだ。

その人が幸せを享受できる量は
生活レベルによって多い少ないが変わるのではなくて
その人自身が選ぶものなんだ。

選べるものなんだ
変えられるもの
なんだ


じゃあ、さっきまでの私が考えていた、
生活に困っていない自分→幸せを感じられる、は
生活に困っている人たち→幸せを感じられない、って
無意識に決めつけていたことの裏返しではなかろうか?

あれ?
私はそういう人たちのことを下に見ていたの??

そう気づいて、自分の考えが至らなかったが故に犯していた
過ちに気づいて、
猛烈に、その未熟さを恥じました。



それと同時に、大きな学びもこの日得られて。

今、手元にある“資産”の有無・大小に限らず、
いつでも幸せのコップの形を変えられます。
=いつでも幸せになれます。

つまり、幸せかどうかは
今、この瞬間に、私が決められます。
私が決めていいのです!
誰に指示されるでもなく、なにかを達成する必要もなく、
ただ、決められる。
決められるものなのです!

そう思ったら、
もしかしたら朝日が登ってくるだけで、美味しいお水が飲めるだけで、
私は幸せになれるかもしれない。

その可能性を秘めてるってことだって気づいて、
とてもうれしくなりました。



そっか。
なにか「幸せになるために」達成する必要なんて
はじめからなかったのかもしれません。

なにかの目標としての、ゴールとしての、達成も、もちろんあると思います。
それを否定しているわけじゃなくて。

ゴールにたどり着くまで幸せでいちゃいけないなんてないし、
そんなこと言ったら、死ぬまでゴールなんて来ない。

だとしたら、
今この瞬間の幸せに気づける人、
そのアンテナを持ってる人最強じゃん!

よっしゃ、私はそういう人になろう!


と決意した、そんなある日の会話です。




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