見出し画像

Let's Stay Together【二〇〇〇文字の短編小説 #6】

テレビの天気予報が、明日の夕方に台風が関東にやってくると告げていた。わたしは夕食後の珈琲を飲みながら、伸びすぎた後ろ髪を左手でもてあそんだ。

冷凍のカルボナーラは一人で食べた。浩次からは「今日も残業」とだけLINEが来ていた。正直なところ、ほっとした。ここ数年は二人でいると居心地の悪い時間ばかりで、つくづく息苦しい。子どもが生まれない事実が濃くなれば濃くなるほど、わたしたちの距離は開いていく。

風が吹いて、窓ガラスが震えた。高層マンションの十二階は、低すぎず、高すぎず、宙ぶらりんのような空間だ。つけっぱなしのテレビでは、四国のある県で遊んでいた二人の小学生が川に流され行方不明だというニュースが流れていた。わたしはテレビを消して、皿の上に置いたフォークをじっと見つめる。小さなころの記憶が二つ重なって頭のなかをぎゅう詰めにした。

一つは幸せな思い出だった。親子三人で並んで遊園地を歩いた夏休みが思い浮かんだ。水泳を習い始めた年だったから、小学二年生の時だろう。メリーゴーラウンドで目が回って、観覧車で足が震えて、ジェットコースターで心臓が飛び出しそうになって、それでも私たちはとことん笑い合った。新聞記者として働く父が仕事で忙しい人だったから、記憶にある限り、三人で出かけるのは生まれて初めてだったと思う。そして、三人で楽しむ最後の小旅行になった。

皿の上に寝転ぶフォークが引き起こしたもう一つの記憶は、そのすぐ後の話だ。前日に続き台風が街に襲来していた。めずらしく父が早く帰ってきて、家族三人で夕食を食べた。ただ、食事中は父も母も無言だった。スパゲッティナポリタンをあっと言う間に食べ終わると、父が口を開いた。

「ミカ、大事な話があるんだ」

わたしは真剣な父の表情が怖くて、母のほうを見た。母はわたしに目を合わせることなく、左手で口を覆っていた。

「パパとママはこれから離ればなれに暮らすことになった。リコンってわかるかな? 理由は今は言えないけれど、もうママとは一緒にいられないんだ。パパとミカはこれまでどおりこの家に住む。ママは……別の街に行くことになった」

「リコン」という言葉が頭のなかでぐるぐる回った。強い風が吹いて、窓硝子がもだえ苦しむように音を鳴らした。八歳になったばかりのわたしは、何がなんだかよくわからなかった。パパとママともう一緒にいられないなんて──細切りのピーマンを下に隠したフォークをじっと見ていると、涙がぽろぽろと止まらなくなった。「どうして?」と聞いても、父も母も何も答えなかった。母は「ごめんね」とだけ言った。

父とずっと暮らしてきたわたしは成人式の夜、リコンの理由を打ち明けられた。父は「ママは不倫していたんだ」と言った。ある日、「他に好きな人ができた」と告げられたという。父は一瞬頭に血が上ったが、自分の至らなさに無力感を感じた。「だから、闘えなかったよ」と話した。不倫の相手が誰なのか、親権をめぐる話し合いはあったのか、なぜ母とわたしはあれ以来一度も合わなかったのか、母は今どこで何をしているのか、父は何も言わなかった。二十歳のわたしは、身勝手な一人の女性のせいで男手一つで子どもを育てなければならなくなった父の苦労を思った。

鳩時計が十二回鳴いた。結婚したばかりのころ、浩次が「音で時間がわかるから便利だ」と言って買ったものだ。浩次はまだ帰ってきていない。正直に言って、わたしは浩次に会いたくなかった。最近はいつも「早く子どもがほしい」という言葉が重くのしかかかってくる。

七年前に結婚してから、わたしたちはなかなか子宝に恵まれなかった。病院で調べてみると、わたしに原因があることがわかった。卵巣機能が低く、排卵が滑らかに行われていないのだという。診察室を出たとき、事実を知った浩次が小さなため息をつくのをわたしは聞き逃さなかった。「一緒にがんばって治療しよう」という言葉が空々しく聞こえた。帰りの車の中で、ラジオからアル・グリーンの「Let's Stay Together」が流れてきた。わたしは大学生のときに一度だけ夜を過ごした友人が、この曲が好きだったことを思い出していた。

カレンダーを二人で見て体を合わせ、排卵誘発薬を飲み、定期的に病院に通う日々は苦痛でしかない。五年をかけて、自分の体ができそこないのような徒労感が強まってきた。自分には何かが決定的に欠けていると感じると、出来の悪いホームベーカリーにでもなったような無力感に襲われる。わたしは子どもなんかいらない。母親になんてなりなくない。浩次との距離はじりじりと開いていった。

明日の夕方に台風がやってくる。わたしは煙草を吸うためにベランダに出た。秋の嵐の前触れが頬をなでる。生ぬるい空気が体にまとわりついてくる。風のせいでなかなかライターの火がつかない。夜空に穴を開けたみたいに丸い月が浮かんでいる。鳩時計が一度だけ鳴いた。

◤完全版は以下の短編小説集で読めます◢


この記事が参加している募集

恋愛小説が好き

文学フリマ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?