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『くちびるリビドー』第16話/3.まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風(4)


「悪いけどワタシ、じじいと一緒に風呂に入るなんてゴメンだからさ」と寧旺が言ったのは、レストランで食事を終え、コテージに戻ったときのこと。
「アンタはどうする? 展望風呂だっけ、行ってくれば?」と言われるがまま風呂へと向かい、あたたかい海水のような温泉に浸かりながら曇ったガラス越しに真っ黒い海を眺め、森を彷徨う童話の主人公みたいな気分で夜道をてくてくと歩き、コテージのドアをあけた瞬間わかった。

 スパイスと赤い果実の甘い香り。
 答えなんて、聞かなくても明らかだったけれど。
「ホットワイン、作ってくれてるの?」と、ウキウキしながら私は尋ねた。
「酔えなきゃ酒なんて、飲む意味ないじゃない? だから先にスパイスをしっかり炒めて、ワインは沸騰させないように気をつけながら温めたんだけど……」と風呂あがりの濡れた髪のまま、真面目な顔で寧旺は言った。キッチンの上には、おばさんの家から戻る途中で買ってきたガラムマサラとシナモンの小瓶、それからハチミツ。

「王子、まずは髪を乾かさないと風邪ひきますよ」
「やっぱり、レモンも買えばよかったかしら。味見する?」
「いい。絶対おいしいもん」
「じゃあ、あとは好き勝手に飲みましょう。夜はこれからよ」
「わ~い!」と、私は両手をあげて喜んだ。そう、旅人の夜はこれから――。

 夜道を歩いてすっかりと冷えた私は、ろくに水分補給もしないままホットワインを飲みはじめ、酔いが(作り手の意図したとおりに)勢いよく体の中を駆け抜けていった。

「やっぱり私、寧旺といると超楽しい! 恒士朗といるときとは全然違う~」
「アナタたち、タイプがまったく異なるものね」
「そう。私いつも思うの、まるでおじいちゃんと孫みたいって。生きてるリズムやスピード感がまるで違ってて、恒士朗といると安心するけど楽しくはない。わくわくしないの」

 いきなり飛び出す本音。
 そうなのだ。恐いほど、どんどん明らかになってくる。
 先日の温泉旅行のときもそうだった。日光へと向かう道すがら、助手席の私は心の中でひとり呟いた。「どうしよう、やっぱり全然楽しくないや……」と。
 はっとした。「温泉なんか、全然行きたくない。こんなの、おじいさんとおばあさんになってから、いくらだって行けるじゃん。若いんだから、もっと楽しいところに行こうよ。本当にもう、恒士朗とはまるで趣味が合わないよ。こんなの私は全然楽しくなーい!」と。気づいてぞっとした。隠れた本心が、ぐだぐだとクダを巻いていた。








くちびるリビドー


湖臣かなた







〜 目 次 〜

1 もしも求めることなく与えられたなら
(1)→(6)

2 トンネルの先が白く光って見えるのは
(1)→(6)

3 まだ見ぬ景色の匂いを運ぶ風
(1)→(8)


3

まだ見ぬ
景色の
匂いを運ぶ風


(4)


 つき合いはじめた頃、デートの場所を決めるのはいつも私のほうだった。美味しそうなカフェ、新しくできた雑貨屋、美術館では何を開催しているか、面白そうな映画はあるか、そういう情報収集を自然と率先してやってしまうのが私。のんびり屋で「どうしようか」「日野さんの行きたいところは?」「おれはどこでもいいよ」を繰り返す恒士朗に任せていたら、行き先を決めるだけで貴重な休日が終わってしまう。

 それでも、恋をしていたからすべてが楽しかった。恒士朗と一緒にいろんなところを訪れて、同じものを見て、同じものを味わって、そういう「初めて」をたくさん知って積み重ねて、ふたりだけの思い出として記録して。

 だけど、あるとき気がついた。ディズニーシーで私が撮った、恒士朗の写真。その表情はどれも笑顔だったけれど、レンズを見つめる彼の瞳の奥は全然笑っていなかった。

 私はしみじみと思った。「あぁ、恒士朗は私に合わせてくれていただけで、本心では楽しめてなかったんだ。……そうだよなぁ。ディズニーシーなんて、恒士朗の趣味じゃないもん。そんなのちょっと考えたら、わかるのにね……」と。

 恋をしていたから、楽しかったから、まるで気づかなかった。

 そして私は痛感したのだ。もう二度と、好きな人にそんなことさせたくない。自分の好きな人が、自分のために無理をして笑っているのなんて(相手にその自覚がなくとも)、見たくない。だってそんなの悲しすぎるよ、と。


 それからの私はデートの主導権をすっかりと放棄し、どんなに時間がかかろうと恒士朗が自発的に動き出すのを待つようになった(彼の打ち出すプランはいつも私の好みからは絶妙に外れ、私はふたりの趣味の違いを徐々に思い知らされるようになる)。

 恋があるうちはよかった。どんなに違いがあっても、そして違いがあるほどに、そのすべてを吸収したいと思う無邪気な私が優った。

 けれど今の私はもう、嘘でも笑えない。

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“はじめまして”のnoteに綴っていたのは「消えない灯火と初夏の風が、私の持ち味、使える魔法のはずだから」という言葉だった。なんだ……私、ちゃんとわかっていたんじゃないか。ここからは完成した『本』を手に、約束の仲間たちに出会いに行きます♪ この地球で、素敵なこと。そして《循環》☆