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今日も、帰り道の気持ちに耳を傾ける

2週間にわたるヨーロッパ旅行から帰って一息つく間もなく、女友達と、そして、(いる人は)それぞれのパートナーを連れて、箱根に旅行に行ってきた。Airbnbで温泉付きの大きなお家を一軒丸ごと借りて1泊2日の旅だ。合計10人、レンタカー2台を走らせて、直接宿に向かった。現地で顔を合わせたあと、少し談笑し、みんなで食材を買いに行った。そのあと、釣りをしたい人は釣りに出掛け、夕食を作る係は西日の差すオープンキッチンで料理をした。夜は遅くまで飲み食いし、温泉に入りなおす人もいれば、歌い踊る人、ソファの隅っこでワイン片手に語りあう人もいて、それぞれが好きなタイミングで好きなことをし、好きなタイミングでベッドに向かった。翌朝、パンケーキを作り、備え付けのマシーンで淹れたコーヒーを飲んだ後、あわただしく片付けをしてチェックアウト。近くの有名な日帰り温泉に立ち寄って、予約困難なイタリアンでランチをし、2台のレンタカーで帰路に着いた。

たくさん笑った2日間、なのに、帰りの車を降りたとき、意外にも私は泣きそうになっていた。疲れきっていた。

どうやら、洗練されすぎた出来事たちや隠しきれない見栄の張り合いに対して疲れてしまったみたい。自己分析は、わりと、簡単だった。

まもなく、家に着いた報告を兼ねたお礼のラインが飛び交った。最後の1人になる前に、「本当に楽しかった、ありがとう」と、ハートを3つ付けて送った。

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最近、ようやく、自分に「合う」こと、そして「合わない」ことがあるってことを認められるようになった。

30年間のうちのほとんど、私は「合わない」は何かを避けるため・逃げるための言い訳に過ぎないと思い込んでいた。だから、自分自身の努力によって、人間関係も仕事も環境も恋人も「合う」ものに変えられると信じていた。

でも、どうも、違ったみたいだ。それに、合わないものとは、無理に付き合っていかなくても良いみたいだ、と気が付いた。

極端な話、マーク・ザッカーバーグやジェフ・ベゾスが日本の伝統的大企業でイキイキ働けるだろうか?という問いには、誰もがノーと答えるだろう。でもそれを自分自身に当てはめたときには、合わせられない自分を責めてしまっていた。

嫌なものは嫌、好きなことにフォーカスする、という選択肢を持つのは、'すごい人'だけだと思っていたから。

でも、自分は平凡だから我慢しなくちゃ、とか、もっと努力して合わせなくては、というのはナンセンスな考え方だったかもしれない、と思う。

才能溢れる彼らと同じように自分も特別だし、私だって自分の気持ちに正直になっていいんだって今は思っている。

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「合わない」に気づくとき、私の場合は、帰り道。帰り道にどういう気持ちになっているか、で、それを知る。

誰かから告白をされた日、誰かに思いを告げた日、退職を申し出た日、転職先からオファーをもらった日、引越先の物件に申込をいれた日、、、

世の中に「合わない」があることを認めてから、こういう大事な日の帰り道、自分がどういう気持ちになっているか、にすごく敏感になった。良い気持ちであれば進んで良いサイン、もやもやしたり苦しいのであればストップまたは引き返すべきサイン。

特別な日じゃなくても、些細に見える予定やちょっとした出来事、日々繰り返していることにも自分がどう感じているかを気にするようになった。

なんとなく行った飲み会、昔仲が良かった人との久しぶりのランチ、毎日の仕事、彼とのデート、、

そのときの気持ちによっては、これからの行動を、少し、もしかしたら大胆に、変えていくつもり。

私は、今日も、帰り道の気持ちに耳を傾ける。

kan.