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「お化け」と知識人

中学生のとき、夏休みの部活で、長野のほうの合宿所に行ったときの話。

合宿所は、田舎の廃校を再利用したものだった。そこのトイレが、われわれが寝る旧校舎から離れたところにあって、しかも古いまま。

当然ながら、「出る」という噂があった。


わたしが参加したときも、夜中に、トイレに行った女子の二人組が「お化けが出た」と騒ぎ始めた。

女子部屋の騒ぎは男子部屋のわれわれにも伝わり、「男子、行ってきて!」となったのだが、わたし含めて、だれも行く勇気がない。

結局は引率の理科の先生が叩き起こされた。


「まったく・・もう」

と目をこすりながら現れた40代の男の先生は、

「きみたちは、お化けなんていると思ってるのか・・お化けなんていないんだよ」

とぶつぶつ言いながら、生徒たちを後ろにしたがえてトイレに行き、電灯をすべてつけて、すみずみまで生徒たちに見せ、

「ほら、なにもいないだろ。すんだら、電気消して寝ろ」

と言って、自室に引き上げた。



こういうことは、なんでもない、よくある出来事だと思う。

その先生にとっても、合宿所に行くたびに起こるような出来事だったはずだ。

でも、この出来事は、わたしには忘れがたく、よく思い出す。

そのときに受けた感銘を、いまの言葉で言うなら、

「はじめて知識人を見た」

そういう体験だったからだ。

「お化けはいない」ことを、身をもって示した大人を見たのは、はじめてだった。

先生は、たぶん自分で意図せずに、ふだんの授業にもまして、わたしを感化したのでした。


きのうスティーブン・ピンカーのことを書いていても、あの出来事を思い出していた。

「知識人の条件とは何か」

なんつーことを、あらためて、ぼんやり考えていたから。



知識人とは、人より知識があることを自慢する人ではない。

みんながこわがっている薄暗いところに行って電気をつけ、

「ほら、なにもないだろ?」

とやってくれる人、それができる人だと思うんですね。


これは、大人だからできる、というものでもない。

ふだん「お化けなんて信じない」と言ってる大人でも、いざとなると怖気づくのはたくさんいる。

いくらたくさん本を読み、教養を積んでも、やっぱり「お化けがこわい」人は多いと思う。

それどころか、「お化けはいる! 見える!」と言い立てる人は、次から次に出てくる。

わたしも知識人失格なんです。まだちょっとお化けがこわいからw



福澤諭吉が子供のとき、神社のご神体を石に変えて、「神罰というものがあるかどうか」実験した話がありますね。(もちろん神罰はなかった)

やっぱり知識人になる人は、そういう人なんだと思う。

ピンカーは『21世紀の啓蒙』という本を書いているけど、啓蒙とはまさにそういうことで、要するに「お化けを信じない」ことだと思うんです。

ていねいに言うなら、「お化け」に象徴される不合理を、だんこ拒否して生きる人ですね。


世の中には、大学教授とか、マスコミの解説委員とか、知識人を自称する人はたくさんいるけど、あんがい「啓蒙された知識人」は、まれだと思う。

憲法9条とか、天皇制とかの問題になると、「お化けが出る」みたいなことを恐れて、口をとざしたり、率直に語らない人はたくさんいる。



井上達夫が、護憲派をこう批判していましたね。


(自衛隊・安保の存在が、戦力の保有・行使を禁じた憲法9条2項に反することは)ちゃんと説明すれば小学生でも分かる。(護憲派は)憲法改正プロセスはなんとしても発動させたくない。なんとなれば、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が出てくる、日本は軍国主義に走る、と。


護憲派も「お化け」を恐れている。あるいは、自分で信じてなくても、「お化けが出るぞ」と人びとをおどしている。



その他、宗教問題でも、部落問題でも、なんでもいいけど、みんなが語るのを恐れるようなテーマ、タブーになりそうなところで、「電灯をつけてくれる」人が、本当に少ないと思うんですよね。

神奈川県人権啓発センターの「部落探訪」なんかも、そういう試みとしてわたしは評価しています。「お化けが出るぞ」というおどしに屈しないのが偉い。


前述のとおり、わたしにも知識人の資格はないけれど、せめて立派な肩書をもった人たちは、知識人の役割を果たしてほしいと思う。

知識人の象徴として、わたしが思い浮かべるのは、いつもあの引率の先生の後ろ姿なんですね。

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