「問題発言狩り」は、いつまで続くのか
イーロン・マスクのツイッター買収以来、言論の自由について考えることが多い。
マスクは、ツイッターを買ったというより、約400億ドル(約6兆円)出して、言論の自由について社会的に議論する機会を「買った」と言える。
しかし、マスクのツイッター以外、メディアはこの問題を、いつまでも真剣に考えない。
日本では昨日あたり、杉田水脈の過去発言を「差別的だ。撤回しろ」と野党と左派メディアが手を携えて責めていた。
杉田や森元首相は、繰り返し同様の攻撃を受けている。左翼はなんとか彼らを失脚させないと収まらないようだ。
私は、こういうことをもう50年、見てきたので、いい加減うんざりしている。
マスコミ業界での経験も交えて、この問題については色々書いてきた。
例えば、4月にはnoteで以下のようなことを書いた。
私がこうした「問題発言狩り」を最初に経験したのは、1970年代の半ばである。中学の同級生が「問題発言」をして、教師たちが部落解放同盟から糾弾集会を受けたときだった。
私は、大人たちが本気で怯えている顔を、そのとき初めて見た。
糾弾集会は全国で行われ、自殺者が出たり、出版妨害事件が起こったりしたが、左派メディアはそれを一切報じなかった(この問題では、産経新聞と日本共産党が正しい批判をしていた)。
私たちは、中学・高校時代、生徒が作る文集の類いまで、教師たちの検閲を受けることになった。社会の授業では憲法の検閲の禁止を教えるにもかかわらず、だ。
ポリコレというのは、結局は1960年代の毛沢東主義に影響を受けたイデオロギーだと私は考えている。つまり文化大革命の延長だ。文革の恐怖は昔の中国の話ではない。今の日本でも続いている。
「言葉狩り」「自主規制問題」は、1980年代を通じて最高潮に達する。
有名なのは、市民団体「黒人差別をなくす会」によって、岩波書店が「ちびくろサンボ」の絶版に追い込まれた事件だろう(1988年)。
そのころ、私はもう出版業界に入っていたが、問題が起こると、出版社合同の「勉強会」が開かれ、私も出席したことがある。形を変えた「糾弾集会」である。
出版社や新聞社の資料室には、差別表現についての対策本がたくさん置いてあった。
中学での出来事以来、状況は50年変わっていない。
そして、私の考えも変わっていない。
私は、こうした「言葉狩り」「問題発言狩り」に反対だ。
それは、私が「君が代」「日の丸」の強制に反対するのと同じ理由だ。
つまり、どちらも表現・言論の自由に対する侵害だからだ。
私も、イーロン・マスク同様、「言論の自由絶対主義者 free speech absolutist」である。思想の左右は関係ないと思っている。(昭和から平成の代替わりの時、言論を抑圧したのは右翼だった)
私は、日本国憲法に反して、言論・表現の自由が半世紀にわたって侵害されていると思う。おそらくマスクも、合衆国憲法に徴して、言論・表現の現状を同様に見ている。
私は、おそらくマスクも、いわゆるリベラルメディア(アメリカでいえばNYタイムス、日本でいえば朝日・毎日)が、言論・表現抑圧の先頭に立っていることに絶望感を持っている。
リベラルがそうなってしまっては、言論・表現の自由は誰が守るのか。だから、マスクは立ち上がったのだと思う。そういう問題意識が、もっと広がってほしい。
昨日は鳥取ループの「部落探訪」動画が、YouTubeから削除される事件もあった。
また、マスクによって復活したばかりのカニエ・ウエストのTwitterアカウントが、またBanされる事件もあった。
JR大阪駅前の「性的看板」問題もあった。
言論・表現の自由をめぐって、あちこちで炎上している。言論・表現の自由について考える絶好の機会だ。
私は、イーロン・マスクのルール「暴力を直接に扇動する言論以外は自由にさせる」が正しいと思う。
私が物心ついて以来、続いているこの問題。今は「キャンセルカルチャー」「ポリコレ」「woke」とか言われる。言葉は色々変わるが、解決しない。私が生きているあいだに正しい方向に向かってほしい。
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