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イーロン・マスク「ポリコレでNetflixは駄目になった」と、牛シャブ事件

Netflixが加入者減少で株価暴落した。それについての、イーロン・マスクのツイッターでのコメントが話題になっている。

10年以上で初めてNetflixの加入者が減少し株価が暴落
⇒イーロン・マスク「Netflixはポリコレウイルスのせいで見ていられなくなった」

twitter

ポリコレウイルスは文明に対する最大の脅威だよね
⇒イーロン・マスク「同意」

twitter

Netflixだけじゃない、映画全般、ゲーム、テレビ
全てにおいて炎上を恐れて近年ゴミみたいなポリコレが蔓延してる

皮肉なことに日本や韓国のような場所以外のメディアにはもうオリジナリティが無い
⇒イーロン・マスク「本当それな」

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イーロン・マスクは「ポリコレ」ではなく、「woke mind virus」という言葉を使っている。「woke culture」が「ポリコレ」とほぼ同じ意味であることは以下の記事が解説しています。

( Woke)は世界中で経験されている人種差別の意識に目が覚めたまたは目覚めた文化として知られています。英語で「目覚めた」という言葉は「目覚め」を意味し、この状況に目覚めることを指します。時間の経過とともに、性別や性的指向に関連する社会的不平等など、他の種類の不正の認識について話すための使用が広まりました。今日では、基本的に社会正義のあらゆる種類の問題について話すために使用されています。

infobae


Netflixは、加入者減少の理由として、ロシアからの撤退をあげている。

しかしNetflixは、去年秋の「イカゲーム」以降、それに匹敵するヒットを出せていない。

スターを起用した新作(例えばDon't look up)も、おしなべてつまらない。

それは事実。

ポリコレだけが理由とも思えないが、それが表現を規制しているのは間違いないだろう。

それより意外なのは、

皮肉なことに日本や韓国のような場所以外のメディアにはもうオリジナリティが無い

の部分だ。

「パラサイト」「イカゲーム」に代表される韓国映画や、日本のアニメに対する評価だろうか。

日本や韓国には、アメリカのような人種問題への敏感さがない。

そして、「男尊女卑」表現やロリコン表現に比較的ゆるい。

つまり、アメリカの基準から見れば「ポリコレ意識」が低い。

日韓のような、意識の上で「遅れている」場所で、皮肉なことにオリジナリティがある、という意味なら、喜んでいいかどうかわからない。


「生娘シャブ漬け」事件と日本のポリコレ


しかし、日本にポリコレがないわけではなく、むしろ猖獗をきわめていると言えるのは、知ってのとおりだ。

最近も吉野家の「生娘シャブ漬け」発言事件があった。

あの常務が言うように、社会人講座を面白くしようとして言った発言だった。

そして、告発者も認めるとおり、現場では受けていた。

しかし、「許せない」というwokeした告発者が1人いれば、それは社会的制裁の対象となる。

典型的な「ポリコレ」炎上事件だった。

「ポリコレ」politcally correctnessは最近の言葉ではなく、1990年代前半の言葉だ。

日本に入ってきたときは、「ポリコレ」ではなく、本国と同じく「PC(ピーシー)」と略称していた記憶があるが、パソコンと紛らわしいので、いつのまにか「ポリコレ」で定着したようだ。

それは冷戦終結直後にアメリカで起こった、いわゆる「文化戦争 cultural war」(主にリベラルと保守の価値観の違いから起こる対立)の一環だった。

だから、もう30年来の問題だ。いまさら、それが表現の障害になっていると指摘するのは、間が抜けていると言える。

あるいは、30年たっても、解決できていない問題、とも言える。

日本において、私の実感でいえば、表現規制はさらにその前、1970年代の後半から始まっている。

「政治的な正しさ」とは、毛沢東の言葉だと言われた。中国の文化大革命の影響があったのは間違いないと思う。同時期に日本では部落解放同盟などが過激化して「言葉狩り」が活発になった。

私はその期間、編集者や記者をやっていたので、当然ながらこの問題とはずっと付き合ってきた。だから、さまざまな思いがある。

私がメディア業界に入った1980年代には、それは「自主規制問題」と言われていた。

法律で決まっているわけではないが、してはいけない表現、という意味だ。

憲法で決まっているのは「表現の自由」だ。それと「自主規制」の関係は、結局、私の現役時代にスッキリ説明されたことはない。

筒井康隆が表現規制に抗議して断筆したのは1990年代の半ばだったが、その貴重な問題提起を、業界は生かすことができなかった。

そのパターンは共通している。

一人、ないし少数のwokeした(目覚めた)人が声を上げる。

それは法的には根拠を持たないことが多い。

しかし、その非公式な告発が社会的権力を持ち、たいがい既成権力者(告発者より社会的地位が上の者)が制裁される。(ここが文化大革命的だ)

法的根拠がないから、罪状も科料も曖昧である。

最近、こんなツイートがあって、なるほどと思った。

「わたしの感情に寄り添いなさい」 これを無限に要求する行為は、配偶者であればモラハラ、上司であればパワハラ、指導教官ならアカハラ。

@junsaito0529

曖昧であるが、告発された側は法的にも抗弁できず、深刻な社会的ダメージを受けて失脚する。

例えば、一人ないし少数が「セクハラ」「パワハラ」と告発すれば、たいがい管理職は失脚する。

しかし、法令ができたとはいえ、「セクハラ」「パワハラ」の法的内容はいまだ曖昧だ。

その曖昧な部分に栄えるのが、さまざまなセミナー業者や各種の団体だ。

法令に書かれていない、曖昧な「してはいけないこと」を教えてあげます、というわけだ。

かつての同和問題では、このような手法で「エセ同和」が栄えた。

今回の「牛シャブ」事件でも、役員は「コンプライアンス研修」を受けるという。

他の企業も、「うちも研修を受けなきゃ」となるだろう。

セミナー業者が丸儲けする。「パワハラ」という和製英語もセミナー業者が作った言葉だ。

それでも、それで世の中が少しでも良くなったのなら、良しとすべきだろうか。

しかし、何十年もこの問題を見続けて、「良くなった」という実感がない。

イーロン・マスクの話からだいぶ逸れてしまった。

最近の「呉座事件」など含めて、改めて論じたい。





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