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坂本睦子の生涯(年譜) 「たらい回しにされた女」

坂本睦子(さかもと・むつこ)



昭和文壇の「妖女」、坂本睦子については Wikipedia に立項されているが、それと、私の以下の記述とは、いろいろ食い違うところがある。

私の関心は、有名文士がそれぞれ何歳ごろに、睦子と関係したかであった。真実を追究するほどの時間も能力もないので、あとは文学研究者に任せたい。


大正3(1914)年、生まれる。

(睦子の生い立ち)
睦子の出生地について、養母の杉崎まさは、睦子に、徳島で生まれたと言っていた。
大村彦次郎(講談社の編集者)は、伊予の松山生まれと聞いていた。
青山和子(青山二郎の妻)の記憶では、睦子は「実の父親の出生は徳島だが、自分は静岡で生まれた」と言っていた(「女神」p111)。
大岡昇平が、綾子をモデルにした「花影」を書くときに調べたが、徳島か、愛媛か、静岡か、結局よくわからなかったらしい。

実父の坂本某は、睦子がまだ乳離れしないころに、女を作って逐電。

実母は、坂本姓を名乗ったまま、睦子を連れて、郷里の静岡に戻る。
そこで実母は、杉崎某という男を知り、一緒に三島で暮らすようになる。
間もなく実母は死亡。
杉崎某は、新しい嫁をもらう。それが「杉崎まさ」で、睦子の養母となる。
間もなく、杉崎某も亡くなる。

睦子が物心つく前に、実父は行方不明、実母は死亡、小さいころの養父も死亡。
だから睦子にはこれらの人の記憶がない。

周りに血縁の人が1人もいない人生だった。

睦子は、養母の杉崎まさ、その母の「イト」(イト祖母ちゃん)の3人家族で、三島で育った。

水商売の杉崎まさは留守がちで、睦子はもっぱらイト祖母ちゃんに育てられた。(養母の杉崎まさは、色が白く鷲鼻気味の、日本人離れした美人だったという。)
イト祖母ちゃんに可愛がられた睦子は、「おばあちゃん子」だった。


大正15(1926)年ころ 睦子10歳前後 上京

杉崎まさは、小学生の睦子とイト祖母ちゃんを連れて、三島から東京に移り、新橋で支那料理屋をはじめた。

自宅は目黒不動の裏だった。苗字がちがう家庭で育ったので、近所の子供から「拾いっ子」といじめられた。(睦子はそれを、色が白いから「白いっ子」と言われていたと思っていた、というエピソードは、「花影」でも「女神」でも出てくる)


昭和5(1930)年 睦子16歳 直木三十五に処女を奪われる

新橋の支那料理屋が倒産。

睦子は、通っていた嘉悦女子商業を中退し、日比谷の大阪ビル地下のレストラン「レインボウ・グリル」の給仕係となる。

「レインボウ・グリル」の入った大阪ビルの6階には文藝春秋が入っていた。

そのため「レインボウ・グリル」には文藝春秋の客が多く、その奥のテーブルを専用のように使っていたのが人気作家、直木三十五だった。

当時39歳の直木は、三つ編みで色白の美少女だった睦子に目をつけ、文藝春秋の別館「木挽町倶楽部」に連れ込み、レイプした。睦子は処女だった。

永井龍男が「晩年の直木三十五」(オール讀物1985・11号)に書いている。

「直木さんには不思議な性癖があった。いく先きざきで眼につく女があると、仔猫を拾うように倶楽部に連れて来て保護した。「眼につく」も、「保護した」も、この場合適切な用語ではないが、全体として美しいとか、目鼻立ちに色っぽさがあるとかの女性に出逢ってしばらく話を交わしているうち、倶楽部へお出でと云うことになる」

久世光彦は、この場面を以下のように描いた。

「書きかけの書き損じの原稿用紙が、嵐の後の桜みたいに散っている。その花の海に、いきなり突き転がされた。お仕着せの裾を後ろから捲られ、顔を畳表に捩じ伏せられて、強い悲鳴を上げたつもりだったが、声にならなかったようだ。お尻を抱える男の手が、骨張って冷たかった」(久世光彦「女神」p14)


昭和6(1931)年 睦子17歳 中原中也、小林秀雄と関係

青山二郎が開いた京橋のバー「ウィンゾア」に勤める。

(直木にレイプされた後、彼女は、17歳からホステスとして銀座を中心に「夜の世界」で生きることになる。なお、当時の記録で「バー」とあるから、以後もそう書くが、いまの言葉では「クラブ」だろう)

青山二郎は教祖的人物で、ウィンゾアには、多くの若い文士が集まった。坂本睦子は「ムー公」と呼ばれ、客に親しまれた。

店に通っていた有名文士は以下の通り。

青山二郎、小林秀雄、河上徹太郎、今日出海、中島健蔵、大岡昇平、井伏鱒二、坂口安吾、佐藤正彰、中原中也、亀井勝一郎、福田恆存、古谷綱武

若い彼らは、酔っ払って、複数で四谷の睦子のアパートになだれ込み、一緒に寝ることがよくあったようだ。睦子が、このうち、どれだけの男と関係したかは分からない。

関係が確実なのは、中原中也、小林秀雄、坂口安吾、である。


中原中也(24歳)は睦子に求婚したが、断られた。

小林秀雄(29歳)も睦子に求婚した。
小林は、長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係に苦しんだ後、「様々なる意匠」でデビューして、批評家として自立したころだった。
睦子はいったん、小林との結婚を承諾したが、すぐに翻意して、同世代のオリンピック十種競技の候補選手(氏名不明)と関西に逃げる(が、いつの間にか1人で東京に舞い戻る)。

青山二郎は、このときのことを、こう語っている。

「あの時は、あわてたね。みなビックリだよ。魔がさしたというか、女心の不可解さみたいなものを見せられたね。ムー公(睦子)が突然、いなくなっちゃった。これがなんと若い男と駆け落ちしたのさ(中略)結局、小林との結婚話は、オジャンになっちゃった」(「ある回想」p19)

傷心の小林は、青山の手ほどきで、骨董趣味にハマっていく。

なお「ウィンゾア」は1年でつぶれた。中原中也が店で、誰かれかまわずからんだからだという。(「ある回想」p18)


昭和7(1932)年 睦子18歳 坂口安吾と関係

睦子と坂口安吾(26歳)とは1週間ほど一緒に姿をくらましたが、睦子1人で戻ってきた。(坂口安吾は『二十七歳』という作品で睦子をモデルに書いている)

(中原、小林、坂口との情事がどのような順番で生起したのか、あるいは重なっていたのか、はよく分からない)


昭和10(1935)年 睦子20歳 菊池寛の愛人になる 


文藝春秋社長、菊池寛(47歳)のカネで銀座のバー「アルル」のママになる。

(野々上慶一の記憶では、睦子は「アルル」のママではなく、ママは「睦子の叔母」が務めていた。しかし睦子に叔母に当たる人はおらず、真相は不明。店は、「ママ」「睦子」とホステスがもう1人いる程度の小さな店だったーー「ある回想」p20)

同時に、菊池寛の愛人となる。大井町の睦子のアパートに菊池は泊まっていた。

野々上慶一(「文學界」を小林秀雄らと創刊した出版人)は、20歳のころの睦子の印象をこう書いている。

「幼いというか、ひどく子供っぽい印象を受けた。色はあくまで白く、細面に一重まぶたの大きな目、すっきりした体付き(中略)舌足らずの物言いがあどけなく、おとなの美人というより、美少女というか、フランス人形?を思わせる可愛さだった」(「ある回想」p20)

だが、睦子は経営に向かず、「アルル」は不振で、菊池も身を引く。

菊池のあと、青山二郎の知り合いの、大森の工場主が睦子のパトロンとなり、「アルル」を支援する。

しかし、結局は工場主も手を引き、「アルル」は倒産する。

このとき、睦子は最初の自殺未遂(睡眠薬)を起こす。


昭和12(1937)年 睦子22歳 河上徹太郎の愛人になる 

このころから河上徹太郎(35歳)の愛人となる。

河上は1928年、27歳のときに、男爵・大鳥圭介の孫であるアヤと結婚している。アヤ夫人は、のちに美智子上皇后のピアノ教師をつとめた。

睦子が河上の愛人になったことを、親友の小林秀雄をはじめ、周囲はしばらく知らなかったらしい。(小林も1934年、32歳のときに結婚している)

この年、小林は偶然、河上と睦子の関係を知った。その出来事を、野々上慶一が書いている。

野々上、小林、河上、そしてピアニストの伊集院清三で飲んだ夜、いつの間にか河上と伊集院は消え、野々上と小林だけが深夜まで飲んだ。

夜明け近くになり、他に行くところがなくなった2人は、目黒の伊集院の家に行った。

「玄関の戸をたたくと、ややして伊集院が出てきたが、ひどく困惑した顔をしているように思われた。(中略)小林さんが、何を思ったか、ふとしたように隣りとの境の襖をすっと開けた。部屋は暗かったが、こちらの電燈の光りが射し、見ると蒲団のなかに男女が寝ていた。同衾しているのは、なんと河上徹太郎と坂本睦子ではないかーー。小林さんが、サッと襖をしめた。そして倒れるようにして、すっと寝床にもぐり込んでしまった」(「ある回想」p25)

翌日、小林は、野々上と2人になった時、野々上にこう言った。

「知っての通り、僕には女房も小さな児もいる。それでもムー公のこと忘れられない。好きなんだ。しかし僕は、キッパリと諦める。僕にはムー公より、河上の方が大事なんだ。おぼえておいてくれ」(「ある回想」p26)


昭和16(1941)年ごろ 睦子27歳 館山に疎開 

河上徹太郎の愛人時代の睦子について、その人柄を、野々上慶一が記している。

「彼女の優しい面はハッキリと記憶に残っている。物の乏しかった戦時中、河上徹太郎と彼女のアパートに行った際、心安い魚屋から手に入れたという鰻のさいたのを、蒸して、自分でつくったタレを付けて焼いて蒲焼にして、食わせてくれたことがあったが、配給酒で一杯やりながら見ていて、その手際のよさに感心し、味のよさにビックリしたことがあり、河上さんに頼んで、何日かして、またご馳走して貰った」
「それから終戦直後、わが家に三番目の児が生まれた話を睦子にしたことがあって、何日かして手編みのセーターを、お祝いに送ってくれたことがあった」(「ある回想」p22)

太平洋戦争で銀座の火が消え、睦子は、青山二郎が借りていた館山の別荘に疎開した(「女神」p74)。

青山二郎は、「ウィンゾア」以降、睦子の後見人だった。睦子は青山を頼りにし、青山の妻の和子とも仲が良かった。青山二郎は睦子の体にはまったく触れなかったという。

このころ、「イト祖母ちゃん」が死んで、睦子はまた睡眠薬自殺を起こしたが、青山に発見されて未遂に終わった。(44歳の自殺までの間に、少なくとも3度の自殺未遂があったらしい 「女神」p173)


昭和22(1947)年 睦子33歳 銀座に戻り、坂口安吾と同棲 

このころ東京に戻り、五反田の「富貴荘」にホステス仲間と暮らす(「女神」p48)。

ホステスらがカネを出し合って銀座にバー「ブーケ」開店。睦子も勤める。

大岡昇平は、フィリピンで捕虜になったあと、家族の疎開先である明石に住んでいたが、この年に東京で歓迎会が開かれた。「ブーケ」に小林秀雄、河上徹太郎らが集まった。ここで坂本睦子は大岡昇平と再会するが、河上らの手前、まだ深い仲にならなかったと思われる(「女神」p49)

「堕落論」で有名になった坂口安吾(41歳)と再会し、しばらく同棲(「女神」p112)。安吾はこの年、24歳の「美千代」と事実上結婚しているが、前後関係は不明(安吾はすでに覚せい剤中毒状態だった)。


昭和23(1948)年 睦子34歳 

この年に書かれた小林秀雄の随筆「酔漢」で、河上徹太郎と旅行したときに、河上が泥酔した姿が描かれている。

「彼には近頃いろいろな心労があり」

云々と小林は書いているが、野々上は、

「その心労の中味は、恐らく睦子に関係があることは確かで、河上さんが睦子を世話していた十数年間、随分と苦労もした筈である」

と書いている(「ある回想」p33)。

しかし野々上は「それらの事については、私はここでは触れない」としているので、詳細は分からない。

(小林は、「酔漢」の河上をやさしく介抱するーーその随筆の本当の意味は、睦子をめぐる三角関係を知っている者にしか分からなかっただろう)


またこの年、大岡昇平が明石から東京に戻る。このとき39歳。大岡は1939年に結婚(帝国酸素での社内恋愛)しており、この年、2人目の子供(長男)が生まれていた。

大岡は、のちに「花影」で、睦子(小説の中では葉子)の容姿を、以下のように形容している。

「葉子の顔立は一応整っていたが、よく見ると造作にちぐはぐなところがあった。お凸の額は細い鼻と不釣合にせり出しているし、かわいらしい口先を下で支える顎は、利かん気らしく張っていた。ことにちぐはぐな感じを強めるのは、左右の眼の形が違うことだった。普段は目に立つほどの違いではないが、深酔いしたり人の顔を長く見つめたりする時、片側の瞼が下がって来て、眼がちんばになってしまうのである」
「こういう欠点をかくしたのは、結局肌の白さである。子供の時から、家に来る大人たちに縹緻(きりょう)よしといわれ、道傍で遊んでいると、通りすがりの夫婦づれが「かわいい子ね」と囁きながらすぎて行ったりするので、そのころから自分に人を惹きつける力があるのを、葉子は知っていた」(「花影」大岡昇平集第5巻p10)

直木に乱暴に処女を奪われたので、睦子は不感症になったという噂があった(白州正子はそれが自殺の遠因と考えた)。

一方、睦子は(下品な言葉だが)「床上手」「名器」との噂もあった。

野々上によれば、

「(睦子は)一種娼婦型の女性といわざるを得ないが、しかし性格は無欲恬淡、どこか投げやりで、それに性的淫奔さはまるで感じられなかった」。

ある夜、バーで飲んでいて、酩酊した野々上が、

「ムー公、あんたはずいぶんと男と寝たらしいが、不感症という噂があるが、どうなんだい」

とからんだとき、睦子は、

「ワッチ(舌足らずで、酔った睦子はワタシといっているつもり)男のひとってキライじゃないわ」

と答えた(「ある回想」p21)。

このとき、

「傍のツワモノの愛子は、ニヤニヤしていた」

と野々上は記しているが、これは高見順の前妻の石田愛子で、女優を目指したあと、このころは銀座のバーの女となっていた。睦子より年上で、睦子が「愛子ママ」と慕っていた。


昭和25(1950)年 睦子35歳 大岡昇平の愛人になる

睦子は、「ブーケ」の支店である「風(プウ)さん」に移り、その後、「ブーケ」からのれん分けした「ブンケ」に移る。

このころ、大岡昇平(41歳)の愛人になる。1949年に「俘虜記」で有名になり、明治大学の講師になったころだった。

文士たちは、世間的に「出世」したときに、睦子に求愛する。それが1つのパターンである。
小林秀雄は「様々なる意匠」でデビューしたあと、睦子に求婚した。
菊池寛は文藝春秋社の経営で成功したあと、睦子を愛人にした。
河上徹太郎は「改造」などの論文で有名になったときに、睦子を愛人にした。
坂口安吾は「堕落論」が売れて睦子と同棲した。
「俘虜記」で有名作家となった大岡も同様だった。
睦子は、文士たちにとって、成功したときに手に入る「トロフィー」のようなものだったのか。

これだけ文学者たちと付き合っても(あるいは付き合いすぎたからか)、睦子は文学や芸術に関心がなかった。(文学や芸術は救いにならなかった)

宗教などに凝った気配もない。ただ、青山和子やバーの仲間と、銀座で映画をよく見ていたようだ。


昭和29(1954)年 睦子39歳 大岡昇平ともめ始める

大岡は、妻と離婚すると睦子に言っていたが、その約束を果たせなかった。

睦子は、40歳を目前に、大岡をなじるようになり、このころ、大岡の腕に熱湯をかけてやけどさせる事件を起こす。(「女神」p83)

大岡昇平は、前年からロックフェラー財団特別給費でアメリカに留学していたが、戻ってきたところで福田恆存に、煮え切らない態度を難詰される。(「女神」p86)

大岡と睦子は、会うと別れ話になる修羅場が続くが、二人の関係は切れなかった。

睦子はこのころから新大久保のアパートで1人で住むようになる。


戦後に河上徹太郎を通じて睦子と知り合った白洲正子によれば、このころの睦子は「いつ会っても二日酔いのようだった」。焦点の定まらない目で、風の行方を追っていた(「女神」p101)。

青山二郎の妻、青山和子は、「ブンケ」のカウンターに、だるそうな体をもたれて、美味しそうにタバコを吸っている姿を覚えている(「女神」p101)。(睦子は小柄で、もっぱら着物を着ていた。)

不倫は泥沼化し、このあと、大岡の妻の自殺未遂などもあったらしい。

この間のことは大岡昇平「花影」を参照のこと。


昭和33(1958)年 睦子44歳 睡眠薬で自殺

4月15日に、新大久保の自宅アパートで死去。

周到に準備された自殺だった。前日にアパートの家主らに遺書を投函し、死後すぐに発見されるよう手筈した。
大岡の「花影」は、当日のことを以下のように描いている。

「部屋の中をもう一度見回して、乱れがないのをたしかめてから、寝巻きに着替え、着物と帯をたたんで、箪笥にしまった。水と薬と手紙を盆に載せて、枕もとに持って来た時、部屋が暗くなりかけているのに気がついた」

「鏡の前へ行って、もう一度顔を直してから、まっすぐ寝床へ向った。腿と足首を腰紐で縛り、仰向けに寝て、首だけねじって、枕元の薬へ手を延ばした」

遺書には知人への感謝や家主への詫び、遺品整理の指示などが記されていたようだが、全貌は分からない(大岡への遺書は、大岡によって隠蔽されたように久世光彦は書いている)。

葬儀は19日、谷中で行われた。喪主は養母の杉崎まさだった。(「女神」p195)

遺骨は、三島のイト祖母ちゃんの実家「相磯(あいそ)家」の墓に入った。


参照:大岡昇平『大岡昇平集 第5巻「花影」』(1982、岩波書店)、野々上慶一『ある回想 小林秀雄と河上徹太郎』(1994、新潮社)、久世光彦『女神』(2003、新潮社)など



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