新聞記者の「社外執筆」「書籍出版」問題 特権と自由は共存できる?
新聞記者の「社外執筆」が規制されている、不当な言論統制だ、と新聞労連が問題にしているらしい。
それを日刊ゲンダイが記事にしていて、ゲンダイらしく、「安倍政権からの言論弾圧の延長線上にあるのでしょう」などのコメントを載せている。
堕落した大新聞ついに自ら“言論統制”の自殺行為 朝日新聞が社員の書籍出版を「不許可」(日刊ゲンダイ6月5日)
大メディアが政治の“圧力”に屈し、権力監視の牙を抜かれて久しいが、ついに新聞社が自らの社員の言論を自主規制する動きが加速していることが分かった。
3日に都内で開かれた「言論機関の言論の自由を考える」と題されたシンポジウム。全国の新聞社や通信社など86の労働組合が加盟する「新聞労連」が主催し、日本ペンクラブ後援で行われた。ここで「社外での言論活動」についてのアンケート結果が公表され、会社による規制が強まっていることが報告されたのだ。(上掲日刊ゲンダイ記事より)
ゲンダイの記事でも触れられている、大手版元からの書籍出版を規制されたという朝日の記者が、ツイッターで抗議活動を展開している。
問題にするのはいいが、何でいまさら、とは思う。
記者の社外執筆が規制されているのは昔からだし、もちろん朝日だけの話ではない。
むしろ朝日や毎日は自由な方で、読売なんかははるかに厳しい、というのが我々の世代の通念だった。
今になってことさら問題にされているのは、何か政治的な意図を感じざるを得ない。
「社内印税」の問題
とはいえ、現役時代から引っかかっていた問題なので、ここで改めて考えてみたい。
思い返してみると、1970年代までは、新聞記者はかなり自由に社外で書いていた。
実名で雑誌に書いたり、本を出したりしていたし、匿名で原稿を書く例も多かった。
新聞記者の公認のアルバイトみたいなもので、文句は言われなかったと思う。とくに需要があったのは、事件の裏側が書ける社会部記者と、政界の裏話が書ける政治部記者だ。
そうしたアルバイトが新聞社の現場で許容され、奨励さえされた理由の1つは、記者がその収入の一部を、部署をあげておこなう社員旅行や宴会の資金として供出したからだ。(昔の人はとにかく社員旅行やどんちゃん騒ぎが好きだった)
また、当時の出版社系の週刊誌や月刊誌は、自前の記者をあまり持たず、新聞記者のアルバイト原稿がないと成り立たなかっただろう。
新聞記者は、自紙での連載を、自社の出版部から本にして出すことも多かった。
その場合は、出版界で普通の10パーセント印税ではなく、それよりかなり低い印税になった。
なぜそうなったのか、聞いたことがある。
その本が売れると、印税が、記者の給与を超えることがあるのである。例えば、その記者の年収が500万円だとすると、印税が1000万円になることがある。印税10パーセントだと、そういうことが起こった(今より本が売れた時代の話である)。
その分、会社にも収益があるわけだから、それでいいようなものだが、新聞に記事を書くという同じ仕事をしていて、給与より印税が多くなるのはおかしい、という声が社内に多かった。他の社員からの嫉妬もあったと思う。
だから、印税が社員としての給与を上回らないよう、印税率が下げられた。
新聞に載った記事を、その新聞社が本として出版することに、執筆した記者は抵抗できないだろう。その場合、記者は、他社で出すより、安い印税を甘受しなければならない、ということになった。
辺見庸(共同通信)のケース
それは不合理で不当だ、と文句を言ったのが、共同通信記者で芥川賞作家でもあった辺見庸だった。これは当時、業界でかなり話題になった。
「印税を他社並みにしないと、共同通信から本を出さない、とゴネている」
「芥川賞作家だから自分だけ特別扱いしろということか」
「カネにがめつすぎる」
と、ここでも嫉妬が働いたのか、業界では辺見の悪口をよく聞いた気がする。
しかし、辺見の論理もわからないではない。
細かい経緯は忘れたが、結局、辺見は共同通信を辞めることになる。1990年代のことだった。
内藤国夫(毎日新聞)のケース
それに先立つ1980年、毎日新聞の看板記者だった内藤国夫が、講談社の「現代」に池田大作のスキャンダルを書いて、毎日の社長が激怒する事件があった。
1970年代に一度潰れた毎日新聞は、創価学会の支援で会社を再建中だった。
毎日経営陣は、内藤に当面、署名記事を書かせない、などの(内藤に言わせれば)「いやがらせ」をおこなう。
結果、内藤国夫は毎日新聞を辞めるのだが、このときも、社外メディアに書いたこと自体は「就業規則違反に当たらない」と判断されていた。
内藤がことの経緯を書いた『愛すればこそ』という本の中に、こうある。
私(内藤)は申し上げた。
「今回の創価学会レポートを、毎日新聞社員としてあるまじき行為と、社が判断されるなら、こういういやがらせをせずに、懲罰委員会にでもかけて、正規の処分をしてください。それなら、私は従います」
主筆は、とんでもないという表情で、こう明言された。
「いや、従業員規則違反ではないのだし、キミを処分する気はない。いやしくも新聞社が自ら言論の自由を狭めるようなことはしたくないからねえ」
(内藤国夫『愛すればこそ 新聞記者をやめた日』文藝春秋 p44)
本多勝一(朝日新聞)のケース
内藤と同様、社の看板記者だった朝日の本多勝一にも、同じ問題があったはずだ。
しかも、本多の書くものはなんでもよく売れたし、筆が早く生産量も多かったから、どこから本が出るかは、注目の的だったはずだ。
おそらく辺見や内藤よりも早くから社内的な問題になったと思われ、当時そういう話を聞いた記憶もあるが、もうはっきり覚えていない。
本多の場合、もともと朝日の記者で高収入だったし、あまりカネにこだわる話も聞いたことはなかった。
朝日が文庫を出し始めると、本多の本は、他社で出た本も、原則朝日で文庫化されていた。一時期、朝日文庫で売れていたのは、本多の本だけだったはずだ。
だが、結局は本多も、朝日を辞めることになる。1991年の「朝日ジャーナル」休刊に抗議する形だった。
以上挙げた3人、本多勝一、内藤国夫、辺見庸は、私が見た新聞記者の中でも抜群に書ける人たちであり、だからこそ社の看板になり、だからこそ社外執筆問題がからみ、最終的には社を辞めることになった。
虫が良すぎるのも問題
1970年代までは、
「言論の自由を守るべき新聞社が、自社の記者の言論の自由を規制するのはおかしい」
という論理が、タテマエとしてであれ、まだ生きていたようだ。
しかし、1990年代には、規制は当たり前、ということになっていたと思う。(だから、今それが始まったようにいう新聞労連や日刊ゲンダイはズレている)
現在、ほとんどの新聞社が、社内規定で社外執筆を規制していると思う。
それが「言論・表現の自由」への抑圧に当たるかは、現役時代から引っかかっていたことであり、このさい議論になるのは歓迎だ。
ただ、どれほど会社との力関係で強かった記者も、上述のように、最終的に社を辞めることになった。それは覚えておいていい。
新聞社の「言論弾圧」が強まった、と日刊ゲンダイが言うならば、私はそれと同時に、新聞記者の会社への依存心も強まっていったのではないか、と言いたい気分になる。
明治以来、新聞記者として出発した言論人は多かったが、最後まで会社にしがみついて大物になった例は少ない。結局はほとんど新聞社を辞めて活躍することになる。
新聞社は、言論人を育てるインキュベーションのようなところがある。そこで学ぶべきは学び、本当に自由に書きたいなら、辞めてから書けばいいのではないか。
労働組合に守られて安定した社員の身分を享受しながら、一方でフリーと同じような言論活動の自由も享受したいというのは、不当とは言えないが、世間的には虫が良すぎると思われても仕方ないだろう。
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