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「ユーラシア異質論」の覇権

与那覇潤さんという人が、わたしの記事を引用してくれたので、お返しにわたしも「フォロー」させていただいている。

その与那覇さんが昨日書いていたのが、「『ユーラシア時代』の日本文明論」という自分の文章の紹介だった。


そこには、梅棹忠夫の「文明地図」が出てくる。

それを見て、

『梅棹の「文明の生態史観」の引用、最近よく見るなあ』

と思った次第だ。


わたしが最近読んだ岡本隆司の『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(東洋経済新報社、2019)も、まさに梅棹史観による中国史だった。

茂木誠が「いちばん影響を受けたのが『文明の生態史観』の梅棹(忠夫)と、精神分析の岸田秀」と言っている、とnoteに書いたのも最近だ。


5月には、高校の新課程である「世界史探究」のことを考えたが、中央アジアの記述が増えたアレも、今思うと梅棹史観による世界史の再編のようだ。


思想的な左右に関係なく、みんな梅棹の世界観を土台にしている。


梅棹忠夫の「文明地図」(岡本『世界史とつなげて学ぶ中国全史』より)


「文明の生態史観」の雑誌掲載初出は1950年代だが、1974年に中公文庫に入り、一気に広まった印象があった。それからちょうど50年だ。

そのころわたしは中学生で、そういう「難しい本」を読み始めたときだった。読書界で話題になった梅棹忠夫は、わたしには懐かしい名前だ。

梅棹忠夫と梅原猛の「2梅」が同じ頃に流行って、「新しい歴史観」ブームのようなものがあった。


わたしはその後、「2梅」について忘れていたが、梅棹史観は、わたしが忘れている間、この約50年間で、日本人の世界史観としてすっかり定着したようだ。

あの京都の「日文研」の人たちが、50年かけて、歴史界の覇権をとったのだなあ、と思う。

梅棹史観が、日本人の世界観をどのように変えていったのか、というのは面白いテーマだと思った(たぶんそういう研究はすでにあるだろう)。


わたしが理解するところ、梅棹の歴史観は、大雑把に言えば

「日本とヨーロッパは同質だが、ユーラシアは異質だ」

というものだ。

その考えは、岡本の『世界史とつなげて学ぶ中国全史』の末尾で、次のようにまとめられている。


日本史と西洋史は、近似した歴史過程をたどっています。

西洋は中世という封建制の時代があり、近代化を経て今日に至っています。日本史でも、そのプロセスをぴったり後追いしたような印象があります。その意味でも日本人にとって、西洋史は大づかみには、とても理解しやすいものなのです。

そもそも日本人と中国人は同じ東アジア人であり、顔も似ているし、漢字を使うという点でも共通しています。ところが、日本人は中国人の言動に、違和感や不快感を覚えることが少なくありません。これは容貌・言語に差異の大きい西洋人に親近感を覚えるのと、まさに対蹠的です。

では、なぜそう感じてしまうのか、考えたことはあるでしょうか。その要因は前述のとおり、日本人が自らの日本史もふくめて西洋史観にどっぷり浸かる一方、中国は前提条件がまったく違う中国史・アジア史を経過して、今に至っているからです。

『世界史とつなげて学ぶ中国全史』p254


日本史と西洋ヨーロッパ史が似ているから、それが歴史の普遍形だと思ってしまうと、地理的にその中間にある、中国をはじめとしたユーラシアの国々は、ただ「近代化の遅れた国」としか見られなくなる。

しかし、それが、50年以上前、わたしが子供のころに習った「世界史」でした。


そもそも、そのころは、中国だって韓国だって、気軽に行ける国ではなく、事実上無視していいような存在だった。日中国交が回復したのは1972年だし、韓国は軍政下だった。教科書で習うのは昔の中国の話で、現代の中国とはつながらなかった。

イスラムの国に至っては、ほとんどまったく教わらなかったと思うし、教わっていたとしても、関係ないと思ったからすぐに忘れていた。西洋と日本の間にあるイスラムが邪魔だから、迂回して海上輸送しましたーーみたいな話で、学校でも「迂回」したまま終わっていた。「世界史」に参加していないように思えたから。

わたしに関しては、イスラムについて、初めて印象づけられたのは1979年のイラン革命だった。多くの人にとってそうだったのではなかろうか。


50年前には、梅棹史観は、話題になったとしても、まだ異端だった。(なんといっても、まだ冷戦時代、イデオロギー対決の時代だった)

50年前の教育だけを覚えて、その後生きてきた人は、今でも昔ながらの中国観やユーラシア観を持っていると思う。

中国は遅れている、という見方は、日本は進んでいる、という「自尊史観」にもなる。

右翼のお爺さんとかに、そういう見方をする人はよくいる。そういう教育をされたから無理はないと思う。


「進んでいる、遅れている」ではなく、生態として「異質」なんだ、という見方の転換は、よりよい理解への一歩になるだろう。

それは、今の「多様性バンザイ」「みんな違ってみんないい」のリベラルな価値観とも相性がいい。


しかし、これも、「あなた方は異質ですよね」と言うと、相手に「え?」と思われる恐れはないだろうか。

「いや、私たちは、あなた方と同じ近代化の道を急いでいる」

と言われるかもしれない。


「異質だ」という言い方は、まだ余裕をかましている。

自分のほうが上だから、「多様な文化で共生しましょう」と言えるところがある。

そのうちに、いわゆる「近代化」においても抜かれるかもしれず、そんな余裕かましてる暇はない、という見方だってあるとは思う。


ともあれ、わたしが言いたいのは、50年もすれば歴史観や世界観は変わる、ということだ。

梅棹が流行った1970年代から、さらに50年さかのぼれば、

「多様性なんてクソ喰らえ、五族共和で仲良くなろう」

という大東亜共栄圏の「世界観」が席巻していた。


だから、同時代に生きている人たちの間でも、20代と70代で異なる歴史観や世界観を持っていて当然だ。

それは「思想」の次元ではなく、「知識」「常識」の次元で、別の土台の上に立っている。

一国の国民のあいだでそうならば、それを世界大に広げれば、「多様すぎる」世界観がそこにあることになるだろう。


こういう「『歴史観』の歴史」には、何か法則性があるのだろうか。

なんというか、多様性を言い出すと、いずれ多様性に疲れちゃうと思うんだよね。

多様性尊重が過ぎれば、今度は「普遍性」への揺り戻しが来るのではないか。

その意味で、梅棹史観も通過点の一つで、あと50年すれば、「顔が似ているから、やっぱ同質でしょ」と、また「五族共和」的世界観が覇権をにぎるかもしれない。(それを言っているのは中国かもしれない。知らんけど)


そのころには確実にわたしはいないから、まあどうでもいい話。





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