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日本の一部フェミニズム活動家に対して思ったこと

フェミニズム、すなわち女性解放思想、女権思想など様々な名称で呼ばれる思想は、女性の権利の主張と男性支配的社会に対する批判を何世紀にもわたり展開してきた。特にジェンダー平等が著しく遅れた日本に対しても、フェミニズムは大きな影響を与えている(日本におけるフェミニズム運動の歴史は遥か前のことであるが、そのようが議論が一般的に行われ、検討し始められたのは随分最近のことであろう)。

しかし日本では、一部インテリ層等々を除けば、フェミニズムはすこぶる不人気だ。特にネット上では、「フェミ」と蔑まれ、多くのネット民の批判の対象になっている。勿論そこ背景には、日本の社会や思想に深く根差す男性支配的な家父長制などに由来する男性優位な社会風土があるのは間違えない(そのようなマインドセットを変えること自体が著しく難しい)。しかし同時に、一部日本のフェミニストによる言論や行為が、結果として世間におけるフェミニズムに対する印象を著しく低下させてしまっていることは否めない。

その問題を端的にまとめれば1)社会集団としての女性の権利主張があっても、フェミニズムの普遍化に対する興味が薄い、2)二項対立的視点からのフェミニズム運動がもたらす制限である。以下順を追って説明する。

私たちが暮らすこの社会は様々な社会集団から構成される。社会集団とは簡単に言えば、同一(又は類似する)の慣習、文化、身体的特徴とそれに伴う帰属意識を共有する人々の集団である。まあ要するにコミュニティ。個々人は一人の社会的人間として様々な社会集団に属する。

そして、異なる社会集団とそこに属する個人が生きるこの社会では常に利益の相反とそれに伴う対立が存在する。例えば、経済的に裕福な資本家は「労働者(サラリーマンもここに属すると考えて良い)よ、死ぬまで働け、経済を回して金を稼げ!」と利益を主張し、それに対して労働者は「ふざけんな、俺らが働いた分の利益は俺らに還元しろ!」と主張する。資本家からすれば労働者をフル活用させ自分の利潤の最大化を図りたいが、労働者は自分の働いた分を資本家ではなく自分の懐に入れたい。

それと同じように、男性と女性(と性的マイノリティ)間でもそのような対立が存在してきた。その中で、マイノリティーの一つである女性という社会集団の権利を主張してきたのがフェミニズムという思想である。という意味でフェミニズムの一つ目の要素は、女性という社会集団の利益や権利の主張である。

しかし支配的な社会集団、例えば男性から見て。「はいわかりました、ごめんなさい、権利あげます、利益無条件で認めます」とは簡単にはならないものです。女性の権利や利益を認めることで、今まで男性が享受してきた特権が失われるからです(それが正義にかなうはさておき、特権を失うことに何も感じない人ばっかりだったら、この世界は今よりはよっぽど平和でしょう)、「何でお前らのことを聞かないといけないんだ、今のままでいいじゃないか!」という男性の主張に対して、フェミニズムは普遍性、平等性を理論に組み込まなければならない。そうじゃないと、その権利主張の一部が仮に男性の良心によって獲得できたとしても、それ以外の多くの利益や権利を主張する上で納得されないからである。

「納得しないならいいし、私たちは私たちで権利や利益を主張する」ということはできる。すなわち男性を敵対視し、社会集団間闘争に持ち込んで権利や利益を勝ち取る場合である。しかしそのようなラディカルな革命的変化の実現可能性は低い。何より暴力的になる。それを防ぐ為に、平等性や普遍性を求め、支配的集団である男性とマイノリティーである女性の関係がいかに不平等であるのか、そしてフェミニズムがいかに女性の解放だけではなく、男性をも解放することができるのかなどを主張することで、多くの社会でフェミニズムが浸透した。

残念ならが、一部日本のフェミニストは、女性の利益と権利主張をしているが、その普遍性と平等性に対する関心は低い。それどころか、男性を過度なまでに行き過ぎた感情論で「敵」として罵る。留意して欲しいのは、問題提起や問題化としてのプロセスにおいて、このような敵対的態度やラディカル性は一程度必要であることを私は否定しない。言い換えれば、それがなければ日本では女性にまつわる問題がそもそも問題化されない(それだけ日本はジェンダー平等において遅れている)。しかし本当の意味において、フェミニズムを政策立案や公共的議論の場に持ち込むのであれば、男を「敵」として刃を向けるのではなく、大多数の男性が共感できるような形で運動を広めるべきである。そのようなアプローチが取られない場合、結果的にフェミニズムが社会一般によってネガティブなレッテルを貼らてしまう恐れがある。

二項対立からの超越もまた大きな課題であるように見える。男性vs女性という現行の対立構造では、問題の複雑性を見出すことはできない。前に言った通り、私たちは全て異なる社会集団に属している。その為、女性であっても、同時にその中でまた異なる社会集団に属する人々が沢山いる。例えば、大坂なおみ選手は、日本人、女性、黒人、スポーツ選手、英語話者、若者…という無数の社会集団に属する。このような異なる社会集団帰属とアイデンティティーによって引き起こされる差別や抑圧を理解しようとする概念がインターセクショナリティー(交差性)である。そのような複雑性の中で、男性vs女性という単純化された構造でフェミニズム運動を進めるのはまた、それ以外の多くのかき消された対立(例えば、貧困女性vs富裕女性、外国人女性vs日本人女性、障害者女性vs健常者女性、これ以外にも非二項対立的な関係)など無数に存在する利益相反や対立関係を無視することになる。

日本において、支配的集団である男性は長年その特権的地位から女性を搾取し、抑圧し、差別してきた。そのような不正義の連鎖を「ぶっ壊す」希望はフェミニズムにある。しかし同時に、フェミニズムは闘争や革命でなくては成し遂げられないものではないことは確かである。何より特権的地位にいながら、ある側面では逆説的に「束縛」されている日本の男性をこのジェンダー不平等の構造的問題から解放することができるのがフェミニズムである以上なおさらだ。

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