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「性の商品化害悪論」と密接に関わる、あるイデオロギーについて

例によってこれも古い話になってしまいましたが、「男の性欲」ないし「性の商品化」を敵視・害悪視することとは「男をあてがえ論」そのもの、つまり「自由恋愛社会」に対する彼女らなりの●●●●●●反感という面があると考えられます。今回はなぜ私がそのようなことを言えるのかについて、「理論」的な解説をしたいと思います。

「反資本主義フェミニズム」と「性の商品化」

まあこういう本を読んでいると必ず吐き気を催すようなところがあって、ほとんど前半までしか読むことができないのですが、いくつか「性の商品化」にまつわるジェンダーやセクシャリティ関連の書籍を読み込んでみますと、その理論はあるイデオロギーと密接に関わっていることに気付かされます。

そのイデオロギーとは、「反・資本主義」のことです。一説によればマルクスの『共産党宣言』から脈々と続いている理論とも言われます。そうなると、最近一気に話題になった日本共産党の「性の商品化を許さない」というスローガンも、完全に「共産党」らしいものであると言えます。

実はこの「反・資本主義」、今日の第4波フェミニズム、「下からのフェミニズム」を特徴づける要素の一つでもあります。フェミニズム側のnote記事でも、資本主義そのものを敵視する視点の記事が増えてきています。

この本の帯にもはっきりと、「ほんとうの敵は資本主義だ」と書かれていますね。

この記事のコメント欄で上述のような指摘をしようかなとも思ったのですが、まあ次の連載で取り上げるだろうなとも思うので、あえて黙っていましたが、やはりどこかでは表明しておかないと、とは思うところです。

信用経済の終焉と再興幻想

ではなぜ今日のフェミニズムにはそのような傾向が強まっているのでしょうか。ここで少し長くなりますが、匿名用アカウント氏の記事を読んでみたいと思います。

まず、二つの経済の話から片付けよう。
 私の父は、いわゆる団塊の世代で、だから戦後間もない頃の日本の景色を目にしている。以前に聞いた話だが、昔はこんな感じだったらしい。
(略)
おわかりだろうか。
 戦後間もない日本は大変に貧しく、だから一切が信用で成り立っていた。お金なんか、ごく一部の人を除けば誰も持っていない。だから生活の大部分を身の回りの人々との信頼関係で成り立たせていた。恐らくだが、ダンバー数並み、人間が自然に認識できる程度の範囲でしか社会が営まれていなかったのだ。
 だが、裕福になるというのは……即ち大勢の人々の協業がなされるということ。すると、協業のルールそのものも変わる。つまり、信用ではなく、貨幣、市場による。
 現代日本において、隣近所にいちいち頭を下げて醤油を借りるような人など、普通はいない。ちょっと最寄りのスーパーなりコンビニなりに歩いていって、数百円のボトルを買えば済む。いつでも醤油を借りられるようにするために、自分の一切をレンタル可能にしておくコストは、もはや人々にとって割高になってしまった。
 世の中が安定し、まだ存在しない協調の糸が結び合わされ、それが拡大するほどに……社会が発揮できる総力は大きくなる。グローバリズムの力が安価な小麦を世界中に提供していたのと同じ理屈だ。そして社会が強く大きくなるほどに、市場経済の力が増すほどに、信用経済の価値は下落し、そこにおける通貨は次第に使用されなくなっていく。
 その一つの帰結としての未婚化がある。結婚とは、すべてをレンタル可能にしておく関係性の一種、信用経済のルールだからだ。
 だが、そうした信用の通貨が枯渇した今、私達はマッチングアプリで交際相手のスペックを見比べながら、結婚についての計画を立てようとしている。だが、異なる通貨で取引しようとするのは、まったく非効率だ。男も女も安全マージンをたっぷり取り、相手の欠点を目で探しながら口元ばかりで笑みを浮かべる。
 そういう状況だからこそ、日本でもバブル末期から援助交際が隆盛を極めた。今ではパパ活というらしいが、根本は変わらない。信用経済で売れなくなった性という商品を、市場経済で捌くようになったという、ただそれだけのことでしかない。

日本のみならずここ30年の世界は、何でもかんでも市場経済化することが好ましいとされた新自由主義ネオリベラリズムが大いに浸透してきました。

それはかつて「共産圏」と呼ばれていた地域も例外ではありません。例えば大陸中国は冷戦末期から「経済特区」、「経済技術開発区」などの市場経済導入のための制度を推進してきました。そして今や日本を超える「経済大国」となり、更には「技術立国」になろうとしています。

こうした新自由主義ネオリベラリズムについては、かつてはProf.Nemuro氏など伝統保守寄りのアンチフェミニストにも批判的な所がありましたが、近年ではそれを上回る勢いで数多の「フェミニスト論客」が、「自称リベラル」が、「人文アカデミア」が一斉に非難してきています。

「下からの」ムーブメントがこのように「反・資本主義」と結びついてしまうのには、やはりこうした「市場経済の拡大・信用経済の枯渇」を背景とした「信用経済の再興」幻想がある、と言えるわけです。

「加齢によってエロティックキャピタルが失われたから」、「自分にとって気に入らない表現だから」、「公共の場にふさわしくないと感じているから」彼女らは性表現を憎悪している、ともよく言われますが、これらはすべて本質ではありません。彼女らはバブル崩壊で「男が稼げなくなった」ことによって旧来の結婚観に則ることが出来なくなり、いわば「自由恋愛を強制された」世代であり、それゆえにこそ「旧来の皆婚規範が徹底されていたほうがましだった」という感情が強まっているのです。

ユダヤ超正統派のコミュニティでは、「女性を表現すること」そのものが文化的禁忌とされ、その嫌悪ぶりはフェミニストのそれが可愛く見えてしまうほどと言われています。しかし婚姻率・出生率ともに他の宗派コミュニティに対してずば抜けて高く、流石にやり過ぎと言えなくもないかもしれませんが、根本はそれと全く変わらないようにも思えます。

その視点からもやはり、「男の性欲」や「性の商品化」を敵視・害悪視する言説は「男をあてがえ論」そのものであると言えるでしょう。

これらのイデオロギーに反対するために、最低限必要な心構えとは

さて、私がこうした言説を「男をあてがえ論」と称するのには、当たり前のことですが、「女をあてがえ論」の鏡写しである、という意味合いを込めています。

前項でもProf.Nemuro氏に触れたように、かつての反フェミニズムでは「女をあてがえ論」・「皆婚社会待望論」・「非婚少子化を背景とした伝統的性観念ないし家族観の復活」が支配的な言論となった時期がありました。ある意味では「性の商品化害悪論」も、彼らがこうした言説によって「市場経済で代替不可能な男女のパートナーシップ」を求めてきた結果と言えるわけです。

意外に思われるかもしれないが、筆者は基本的に「AV規制」賛成派である。
そもそも性愛の自由化そのものに反対しているのだから、性の自由化(商品化)の最たるものである売春やポルノを手放しで賞賛するわけがない。それらを生産・消費することを倫理的に咎めようとは思わないが、マクロな社会設計を考えれば一定の歯止めを利かせた方が社会全体の厚生は高まるだろう。

その時にこれらの「女をあてがえ論」を支持する側についていて、今は表現の自由界隈に籍を置いているようなアンチフェミ論客がもしいるのならば、私は彼らを徹底的に軽蔑しなければなりません。

この一文は何度でも引用しなければならないでしょう。

 その一つの帰結としての未婚化がある。結婚とは、すべてをレンタル可能にしておく関係性の一種、信用経済のルールだからだ。

少なくとも「信用経済」への幻想を捨てられなければ、「自由」を盾に今のフェミニズムとたたかうことなど、本質的に不可能なのです。あなた方にその覚悟はあるのでしょうか。青識亜論氏もかなり近い指摘を3年前からしていたはずです。

我々が目指すべき問題解決の手段は、「技術的解決」です。そのためには現行の「技術革新」の土壌、すなわち「自由主義」ひいては「市場経済」・「資本主義」をとにかく延命する必要があります。

技術力でも中国は日本を抜いた、と言われて久しいですが、その中国も、市場経済の導入なくして、今日の発展はあり得たのでしょうか。中国でも「一人っ子政策」、「2種類の戸籍制度」などの現状に合わない制度は廃止する方向にありますが、市場経済導入のための諸制度が廃止される方向に動いているという話は全く聞きません。これらも初期のものでは50年近く続いているにも関わらずです。

そうは言っても…と思った方へ

さて、私の言いたいことは要するに、「自由恋愛社会」をこれ以上解体させてはいけない、ということなのですが、そうは言っても自由恋愛社会って、結果的に時間差一夫多妻を推進して彼女らの出産や子育てにかかる費用を非モテ独身男からむしり取るスキームじゃないか、何で今更それを進めるんだ、と思う方もいらっしゃると考えられます。

次回の記事では、その「自由恋愛社会における少子化対策子育て支援スキーム」について、真面目に検証していきたいと思います。実はこのスキームは意外にも、自由恋愛社会のほうが男性側の負担が軽くなっていた可能性があったのです。どういうことなのでしょうか?