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金子みすゞとは|日常に想像力を足して誰も見たことない世界を書いた詩人

東日本大震災が起きて民放のCMが流れなくなったとき、金子みすゞの「こだまでしょうか」が流れたのは記憶に新しいところだ。

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと
「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと
「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで
さみしくなって、
「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか、
いいえ、誰でも。

相手にかける言葉は自分に返ってくる。思いやりの大切さをいったこの詩は、優しさが溢れていて素敵だな、と思う一方でちょっとシニカルさを感じた。彼女の作品はありふれた事実をもとに、独自の感受性、モノの見方を入れ込むスタイル。だから説得力があった。

これがファンキーモンキーベイビーズだったら「元気出せ! 優しくなろうぜ!」と高らかに歌うだろう。それも素晴らしいと思う。金子みすゞは事実を述べるだけで独白はほぼない。

つまり読んだあとにどう感じるべきなのか、はあくまで読者に任せてるんですね。しかし読む側はその向こうに、彼女が言いたいことをしっかり感じるわけです。

だから読んでいて「あ、優しくならねばな」と思えるんでしょう。今回はそんな金子みすゞの26年の生涯について、みんなでみていきたい。彼女はどんな人生を歩み、何を感じて慈愛にあふれた詩を書いたのでしょうか。

金子みすゞの生涯 〜いくつもの別れを経験し、秀才になるまで〜

金子みすゞは1903年に山口県で生まれる。本名は「テル」ですが、ここでは金子みすゞと呼びます。父と母、祖母、2つ年上の兄が二人、2つ年下の弟が一人の6人一家でした。叔父さんが山口・下関で巨大な書店を経営しており、お父さんはその支店長。なので単身赴任だったんですが、みすゞが3歳のころに脳溢血(他殺の説もあり)で命を落とす。

その結果、弟が叔母の家の養子になり、みすゞは幼くして、大きい別れを二度も経験した。この出来事はみすゞに大きな影響を与えることになる。

しかし決して、別れが彼女を孤独にさせたわけではない。小学生に上がる彼女は頭脳明晰で優秀。そして一家の影響もあいまって本好きの少女として成長していきます。おとなしい子ではあったが、クラスメイトに慕われる女の子だったそうです。

当時は女学校に上がる生徒はほとんどいない時代。そんななか、成績優秀なみすゞは高校に上がり、しかも成績もトップクラスだったという。そしてこのころから、彼女は少しずつ孤独になり始める。しかし社交性もきちんとあり、変人扱いなんてされてはなかった。

当時の彼女は「1人で登校すること」をルーティンにしていた。それは「誰かといるのは楽しいけど、ときに悪口を聞かなきゃいけないから」という理由。

金子みすゞの優しさがうかがえるエピソードだ。周りの友だちが悪口で盛り上がるなかでも、スルーできなかったのだろう。思慮深さもあるし、真面目な性格もよくわかる。

また彼女がいかに俯瞰して周りを見ていたかも分かる。なかなか、おそらく女学生として社会の明るいところの暗いところも見えていたはずだ。

金子みすゞの生涯 〜20歳で鮮烈なデビュー〜

そんなみすゞは、16歳にしてまたも別れを経験する。叔母が亡くなったことで、母が叔父に嫁いだわけだ。この背景には、養子の弟が気になる母の思いもあったのだろう。その結果、金子家は兄と祖母とみすゞの3人となった。彼女はもともと教師になることを目指していたが、家系を支えるために父が遺した書店で働き始める。

当時の書店の役割はめっちゃ大きいんです。なんせYouTubeもSNSも、ましてテレビもない時代。流行はすべて本屋から取り入れるしかなかった。しかも金子文英堂は当時地元で唯一の書店で、そこそこ繁盛していたそうだ。

そんななか兄が結婚し、みすゞは店を兄夫婦に任せて母と叔父と弟が暮らす下関に移る。これも兄夫婦を気遣ってのことだった。20歳のみすゞは下関で叔父の書店の看板娘として働く。

そしてみすゞが下関に引っ越した1923年ごろの大正デモクラシー全盛期のなかで流行っていたのが、「童謡文学」だ。1918年に創刊され、一大センセーションを起こす「赤い鳥」をはじめ、児童向けの童話雑誌がいくつも発刊された。芥川龍之介、北原白秋、野口雨情などの作家が、童謡雑誌で作品を出していた時代だ。

みすゞも当然本屋さんで童謡を読んでいた。なかでもお気に入りだったのが、西条八十だ。みすゞは彼の詩を読んで「私も書きたい」と思うようになる。そして20歳で西条八十が創刊した雑誌「童話」をはじめ複数の雑誌に童謡を投稿した。

するとすべての雑誌で作品が選ばれることになる。まったくの無名の作家が突然、複数の雑誌に掲載されたんですね。なかでも西条八十の「童話」には「お魚」と「打ち手の小槌」が掲載された。

金子みすゞ「お魚」

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場でかわれてる、
こいもお池でふをもらう。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうしてわたしに食べられる。

ほんとに魚はかわいそう。

西条八十はすぐに彼女の才能を見抜き「温かくて人情味のある名作だ」と褒め上げた。そしてのちに「若き童謡詩人中の巨星である」と絶賛するんですね。一方のみすゞは西条八十に手紙を出して「童謡を作って1ヶ月……選ばれるとか思ってなすぎて、危うく雑誌を買いそびれるところでした。びっくり。ありがとうございます」と嬉しそうに書いている。

こうして20歳で童謡詩人としてデビューした金子みすゞは、その後も精力的に作品を発表する。そして毎月何編も選ばれている。ここからの2年間で彼女は名作をいくつもリリースし、他の童謡詩人からも憧れの存在になった。

金子みすゞの生涯 〜結婚をきっかけに自ら命を絶つまで〜

しかし1925年、22歳のころに西条八十が渡仏すると、後任とうまが合わずに、金子みすゞはすっかり童謡を書くのを辞めている。この背景には親友の死もあった。

また同年、みすゞの知らないところで縁談が持ち上がっていた。叔父が「早く書店の後継が欲しい」と考え、従業員・宮本啓喜との見合いを持ちかけたのだ。翌年、みすゞが23歳のころに半ば無理やり結婚が決まる。なんとなく不穏な結婚生活の幕開けだった。

そのころ、ほぼ同時に西条八十が帰国。みすゞはまた作品を発表し始めるが、同年に雑誌自体が廃刊になってしまう。

しかし、すでにみすゞは童謡作家として一定の地位におり、同じ時期に童謡詩人会に入会。女性での入会は、与謝野晶子に次いで2人目という快挙だった。

仕事は順風満帆だったが、私生活はかなりボロボロな時期だった。結婚相手の宮本はすでに子どもを身ごもっていたみすゞを差し置いて、浮気三昧だったんです。彼は商才はあったが、遊郭通いがやめられないどクズだった。しかしみすゞはすでに子がおり離婚ができない。いっぽう縁談を持ちかけた叔父は大激怒。夫妻は書店を追い出されてしまう。

同年の11月、23歳のみすゞのもとに第一子のふさえが誕生。彼女にとってふさえはまさに生きる希望そのもので、彼女は誰にとっても「明るくなった」と見えたそうだ。

しかし子が生まれても宮本は与太中の与太で、仕事もせずに家にお金を入れず、ついにはほとんど帰って来なくなる。そんななか、みすゞは淋病を発症。女遊びが激しかった宮本から移されたものだった。

淋病は今でこそ軽症だが、ペニシリンのない当時は死に至る病であり、みすゞはぐったりと消耗し、寝たり起きたりを繰り返すようになる。それでもなんとか童謡を書いていたみすゞだったが、宮本はそれを好まなかった。「やめろ」と、創作はおろか外部との文通までを禁じたんです。

みすゞは24歳にして最後に書き記してきた童謡を3冊のノートに書き留め、西条八十に送り、仕方なく詩を書くのを辞めた。

その後、宮本が始めた菓子問屋の仕事は好調になるも、金を持った彼はまた女遊びに狂うようになる。そして耐え切れなくなったみすゞは「自分に至らない点があったから」と離婚をする。そのときの条件はふさえはみすゞが引き取る、というもの。彼女はふさえをつれて下関の叔父のもとに帰った。

しかし宮本はふさえを引き取りたいと何度もメールをよこす。みすゞは応えなかったが、ついに「1930年3月10日にふさえを引き取りに行く」と文面が届いた。当時は基本的に父親が親権を望んだ場合、妻は拒めずに子を渡すしかなかった。

そうして迎えた3月10日、みすゞはお昼に神社に参り、母と娘ともに食事をして、娘を風呂に入れた。その間はずっと童謡を歌っていたそうだ。そしてふさえを母と同じ布団に入れて「かわいい顔して寝とるね」といい、服毒自殺をしてしまうのである。

遺書にはふさえを母に預けることを熱望する内容が書かれていた。夫に対しては「あなたができることはお金だけだ」とある。そしてふさえは遺書通り、みすゞの母のもとで育てられることになる。

金子みすゞの想像力は日常をファンタジーに変える

金子みすゞの作品は、どこまでも日常の世界を舞台にしている。ただ、そこに彼女の想像力を足すだけで誰も見たことがない世界が広がる。

私と小鳥と鈴と

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、
海の小石のそのように、
夜がくるまで沈んでる、
昼のお星は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
 
散ってすがれたたんぽぽの、
瓦のすきに、だァまって、
春のくるまでかくれてる、
つよいその根は眼にみえぬ。
  見えぬけれどもあるんだよ、
  見えぬものでもあるんだよ。
大漁

朝焼け小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜は祭りの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。

金子みすゞには、私たちの目に見えないことがいくつも見えていた。その多くは喜びの背後にある悲しみだったり、強者の裏にいる弱者だったりする。ハッピーニューイヤー!とニューヨークで叫ぶ大衆のすぐ後ろの路地には寒さに凍える孤児がいるものである。

ではなぜ、こんなにも想像力が培われたのか。そのヒントが、彼女の童謡「転校生」にある。まさに金子みすゞを表す名作だ。

よそから来た子はかわいい子、どうすりゃ、おつれになれよかな。
おひるやすみにみていたら、その子は桜に もたれてた。
よそから来た子はよそ言葉、どんな言葉で はなそかな。
かえりの路でふと見たら、その子はお連れが 出来ていた。

転校生に声をかけたいのにかけられない。気がついたら他の子と仲が良くなって、チャンスを逃してしまう。文化系のコミュニティで生きてきた陰の者であれば、こういう経験は何度もしてきただろう。

金子みすゞの優しさは、とっても内面向きなんですね。めちゃめちゃ人のことを気にかけている人なんです。自分というフィルタを通して、周りのことを俯瞰して見ていたからこそ、想像力が養われたんだろうと思います。

ただ、もしかしたら優しすぎたのかもしれない。そのぶん自分に降りかかる災難を避けられなかったのだろう。だから彼女の最期は書いていて辛い。でもそんな優しさがなければ、彼女は傑作を残せなかったんだと思います。

最後に、そんな金子みすゞの作品で最も好きなのを紹介させて欲しい。この短い文に彼女の凄まじい想像力がいっぱいに詰まっている。

見えないもの
 
 ねんねした間になにがある。
 
 うすももいろの花びらが、
 お床の上にふりつもり、
 お目めさませば、ふと消える。
 
 だれもみたものないけれど、
 だれがうそだといいましょう。

 まばたきするまに何がある。
 
 白い天馬がはねのべて、
 白羽の矢よりもまだ早く、
 青いお空をすぎてゆく。
 
 だれもみたものないけれど、
 だれがうそだといえましょう。

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