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人間がヲタクになり推し活を終えるまでを4ステップで解読してみた

私は主にアート、マンガ、音楽、小説といった分野でライティングをしている。これらの創作物は、広義で「文化(カルチャー)」という枠でくくられる。

ただ、カルチャーは決してエンタメだけに特化した言葉じゃない。カップ焼きそばUFOのパッケージとか、無印良品のオーガニック食材とか、そういうものもひっくるめて文化だ。決して一過性のブームではない。何人かのヲタがソレを推して歴史を作ったもの。それが文化となる。

カルチャーについては以下の記事で紹介していますので、暇すぎてもう飲料の原材料欄を読んでる自分に気づいたときにでもぜひ。

で、最近、おかげさまで「カルチャー ライター」でエゴったら、私のTwitterとnoteが上に出てくるようになった。

いやほんと、いつもみなさまが読んでくださるおかげだ。ありがとうございます。鼻血の勢いで空飛べるくらい嬉しい(コロコロコミック脳)。

せっかく幸せなので、今回は文化を作ってきたヲタに敬意を表して「美術やマンガ、アニメへのハマり方」について書きたい。いったいどこに惹かれて、人は何かを推すようになるのだろうか。そして、どのような末路をたどっていくのか。

要するにこの記事は結局「美術とかマンガって何が楽しいの?どこを見ればいいの?」っていう話を自称・ヲタクの研究家、つまりヲタクのヲタクである私が喋り続けるやつである。

「もう毎日が退屈で休日はラッコが手を繋いで眠るYouTube動画ばっかり見てたら一日が終わるんです」って方は、この記事を読んでぜひ推しを作ってみてほしい。マジで毎日が変わるから。

一次ヲタ 〜ハード面としての「好き」〜

ハード

「なぜ人は何かにハマるのか」。その理由は本当にさまざま。十人十色祭りなんですけど、入り口としていちばんデカいのが「ハード面」だ。見た瞬間に「ビビッとくる」わけである。

単純にそのデザインを見つけて「おっ、これはちょっとヤバいな」と思うあの感覚こそが、創作物にハマるきっかけとして最も広い。

例えばゴッホの色の塗り方とか、ゴダイゴのメロディセンスとか、井上雄彦の集中線の描き方とか、京アニのぬるぬる感とか、なもり絵やいたる絵のキャラのかわいさとか。

そういう「作品として表れたそのもの」を、ここでは「ハード」と呼ぶことにする。そしてこの「ビビビッ」という一撃で人間はマジで人生が変わる。

例えば藤子不二雄や松本零士は、手塚治虫の「新宝島」の描写を見て、あまりの衝撃に漫画家を志した。それまでになかったコマ割りとかカメラワークの表現力に強く惹かれたわけだ。

手塚治虫「宝島(改訂版)」の冒頭

パッと観た瞬間に「いや、すこ。これマジすこ」と雷にビビビッと撃たれ、もうなんか骨とかスッケスケの状態で「あ、これ俺もやってみてぇわ」と思ったわけである。

西洋美術史でいうと新古典主義のドミニク・アングルは、ルネサンスの画家ラファエロの絵を見て「おいなんなんこれ。完璧すぎるやろ」とドン引きしたらしい。

ラファエロ「アテナイの学堂」

「もうこんなんやられたら、真似するしかないやん」と衝撃受けた。アングルは円でバランスを取るシンメトリーの構図を多用するが、これも「ラファエロの完全無欠なシンメトリーの美しい構図」に、もう完全にやられてしまった結果、作風に影響したわけである。

「藤子不二雄」とか「ドミニク・アングル」と書くと、ちょっと高尚な感じに見えるが、この「ハード面に恋する」ってのはアレだからな。カードキャプターさくらの木之本桜が「ふえええ」とか「はにゃ〜ん」とか言ってるの見て「か、かわいいでござる……」つってフィギュア買い漁る中年ヲタと一緒だからな。そう、そんな中年ヲタも推しにしっかり人生を変えられているわけだ。

だから、この電撃にはマジで気をつけたほうがいい。その「ビビビッ」が「ヲタ沼」の始まり。まさに終わりの始まりなのである。

一.五次元ヲタ 〜身の回りのものがしっかり歪み始める〜

成れの果て

ビビビッときて1週間後、まずYouTubeの広告動画とかAmazonの「あなたにおすすめコーナー」から変わっていく。ただ、安心してほしい。まだ大丈夫。この段階であれば「空咳が出る」くらいの危うさだ。まだ銀のベンザで対処できる。

ただ、この初期症状に気づかず放置していると、2カ月後には着てる服とかインテリアが激変し始める。こうなるともう遅い。1年後には周りの交友関係がすべてメタモルフォーゼして、盆正月に久しぶりに帰省したときに親から「(あんた……ちょっと見ない間に悪魔と契約した?)」みたいな顔で見られる。

ちなみに男女問わず恋人持ちリア充(死語)だった場合、この一.五次元フェーズで「〇〇って、変わっちゃったよね……」なんつって別れるケースが7割を超える(国連調べ)。そういった意味で、まさに一次ヲタは終わりの始まりなのだ。

二次ヲタ 〜ルーツ・歴史としての「好き」〜

グロービス「確証バイアスとは」

そんなハード面から入ったら、人間というのは「推しのこともっと知りたい」つって、片っ端からSNSをフォローし、Wikiとか個人ブログとかを漁り出す。

例えば漫画家にハマったとしよう。その漫画家の「うわ懐かしい〜。この作品好きだったわ〜」みたいな引用リツイートがスルスルっとタイムラインを襲う。すると、もうごく自然な形で「推しのルーツ」を知ってしまうわけだ。これがヤバい。

例えば「鬼滅の刃」が出てきたときに「吾峠呼世晴がつげ義春から影響受けてた」みたいなんが話題になった。すると「へぇ、知らんなぁ〜。でも好きな人の好きな作品ならちょっと読んでみようかなぁ」っていう感じでルーツを漁り始めるのだ。

で、だいたいこのパターンに陥ったら、そのルーツまで好きになる。ここの勝率は9割超えてる(WHO調べ)。なぜなら「好きな人の好きなモノを好きになれない自分なんて好きになれないからだ(早口言葉)」。

この鬼のような確証バイアスの結果、ほとんど何を見ても「そうそう、こういうの好きなんだよなぁ。こっちにもハマれるわい」と錯覚する。もうなんかたぶん推しが「うんこ好き。超かわいい」とかつぶやいてるの見たら、余裕で世界中のうんこ集める。

で、この「ルーツを知る」ってのが、かなりの沼だ。酒なぜならルーツは歴史であり、歴史はいくらでもスライドできるからだ。鬼の確証バイアスの結果、推しに影響を与えた作品や作者が自然と目につき、一つずつ遡っていくんすね。

ここからは「ドラえもん沼にハマった人(架空)」を例に挙げてみよう。まずは一次で「ドラえもんおもろ。かわいいし大好き」つってハード面を好きになる。で、ドラえもんのWikiを漁りにいくと、作者は藤子.F.不二雄とある。「他の作品も読みたい」つって、山盛りの確証バイアスを背負って「パーマン」とか「オバケのQ太郎」「キテレツ大百科」とかを読み始めるとともに、藤子.F.不二雄botとかフォローすると手塚治虫を見つける。

すると「え、私にとって神である藤子不二雄に影響を与えた先輩? 神の…先輩……? なにそれ」つって手塚マンガも読みたくなる。で、今度は手塚にハマる。そしたら幼いころの手塚にとって神だった「フクチャン」とか「のらくろ」が気になっていく。

まさに推しの数珠繋ぎである。最初はドラえもんヲタだったのにだんだんスライドして「いつの間にか戦前の漫画を読む」という現象が起きるわけだ。

ただこうしてスライドして得た知識はすべて「ドラえもんに還元される」。これがミソである。調べるなかで「手塚治虫すげぇ」とか「田河水泡やべぇ」ってなるが、なんだかんだ「そんなレジェンドの影響で生まれたドラえもんってやっぱすげぇんだ!」となるのがヲタの最高に楽しい瞬間だ。

のらくろ、ドラえもんともに声は大山のぶ代さんなんです

また、すごいのはルーツを見ながら「あ、ここ似てんな」っていうポイントを見つけることで、謎に審美眼が磨かれるってこと。「Wikiには『影響を受けた』って書いてあったけど、いったいどのへんよ?」と目から血の涙をドバドバ出しながらドラえもんとアトムを同時に読んでいく。これはすべてドラえもんへの愛ゆえだ。

審美眼が磨かれると、その後の調査はかなりスムーズにいくもので、のらくろからフィリックス・ザ・キャットに移り、無声映画をディグり、ワーナー・ブラザーズの初期作品を眼球よりデカくなったクマをぶら下げながら観るようになる。ルーツのルーツ。ルーツのルーツのルーツとどんどん掘削しまくる。でもどんだけ離れても、結局最後は「ドラえもんヤベェな」に終始する。

この「推しがヤバすぎて死ぬ」っていう歓喜の瞬間のために歴史を深ぼるようになるのが、二次ヲタである。この辺りまで来ると、すでに過激派ヲタクの顔に変わっているはずだ。まず黒眼が100%になる。鼻息は赤兎馬くらい荒く、眉は吊り上がり、何を聞かれても「デュフデュフ…」と返答するという、晩年の三島由紀夫みたいな気迫に満ち溢れる

二.五次ヲタ 〜推しへの愛の肥大化によりめんどくさい奴になる〜

めんどくさいを「こだわり強め」と言い換える高等技術

「推しへの愛のあまり歴史を深ぼること」。これが実は人間をダメにしていく。圧倒的リサーチ力によって、この時期のヲタクは、もう人とのコミュニケーションのすべてにおいて、推しフィルタを通さざるを得ないのだ。だからもうぶっちぎりでコミュ障になる。

もう何を聞かれても「いや、ドラえもん的にその観点はおかしいと思う」みたいなことを真顔で言うようになるわけだ。例えば「好きな食べ物は?」と聞かれたら、四次元ポケットから取り出すアクションと共に「どら焼き〜! だってドラえもんの好物だから」と答える。

しかしこのアクションと「だってドラえもんの好物だから」が完全に余計な一言だということに気づかない。なぜこれをやりたいのか。それは「私はドラえもんが好きなんだよ」ということを高らかに宣言したいからである。 しかし聞いた側としてもそこを突っ込むのはさすがに野暮かなと思い「へへ……あぁ……へへ、へぇ、そうなんだぁ」と苦笑して応えるしかない。

私自身何度も出会った「質問しなきゃよかったフェイス」

そしてさらに厄介なことに二次ヲタの段階でかなりの知識量がついているため、何も知らない知人が「ドラえもんって、やっぱ第一印象かわいいじゃん?」とか言っちゃうと「いや、たしかにドラえもんはディズニーとか手塚治虫由来の円形のデザインをもとにした、いわゆるかわいいデザインだけど、決してかわいいだけじゃないんじゃないかな。だから第一印象を決めつけるのは良くない気がするな。うん。だってさ、例えばあの映画だったらさ……」みたいに、急転直下でマウントを取るようになる。推しをわかったように語られるのが嫌で、なんか駆け出しの文化人的な感じになっていくのだ。

ちなみにヲタが長文を語るとき、誰しも「早口」をイメージすると思う。しかし私の経験上、ヲタにはスローで長文を話すパターンもある。

ヲタが早口なのは「推しについて伝えたいことがたくさんあるけど、おそらく相手はこの話に興味もないし、自分はきめぇ奴と思われてそうだし、あぁでも伝えたいことがまとまりきれん」という表れだ。

つまり相手から「うわこいつきっしょ」とか「興味ねぇわその話」みたいな顔をされて、はじめて「尺」を気にするわけである。だから稀に傷つくことをまだ知らないヲタはスローに長文を喋る。私はこのレアな人種を「無垢ヲタ」と呼んでいる。

三次ヲタ 〜人生哲学としての「好き」〜

完全に推しと同化した三次ヲタ像

自分のなかで完全に「推しという神」の出自を理解できたときには、もう精神的には長髪白髪になり、大樹のもとで霞を食って生きる仙人の境地に達する。

私生活でなにか巨大なトラブルや悩みがあっても「うむ。まぁでもドラえもんいるし、いいか」くらいに泰然自若として考えられるようになるわけだ。ちなみにドラえもんに何かトラブルが起きた際にも「この後〇〇とセリフを言うだろうな」と完璧に想像ができるため、人生においてノーダメージなのである。

目から血を流しながら出自を掘っていた時代に「いやぁ推しに人生救われたわ」とか感動してたのを、もはや懐かしく思う。この仙人の境地になると、推しと自分が同化してきて「推しを他人と思っていない」という事態に陥るのである。推し=自分自身なので「私は自分で人生を救った」と本気で思うようになるわけだ。

するとある日、ふと気づく。それはかなり些細なことで気づく。例えばカフェで注文するときに、無意識的にオレンジジュースを頼み、飲んでいる時に気づく。

「あれ、なんでオレンジジュース頼んだんだ。そうか俺ドラえもんだもんな。あれ、なんでこんなにドラえもんを好きになったんだろう」

これが三次ヲタだ。好きすぎて同化していた推しと自分を、一回切り離し「なぜ推しにハマったのか」というテーマで自身の人生を振り返るようになるのである。こうなると、もうノートに自分の半生を5万字くらい書き出す。

「……少年時代、ドラえもんは観てなかったな。親がアニメに厳しかったもんな。ゲームもダメだったな。一回、親に黙ってともだちの家でゲームしてたら、めっちゃ怒られた。あと、小学生のころから家庭教師来てくれてたから、時間的に観られなかったんだよな……。家庭教師嫌いだったなぁ」みたいに振り返るかもしれない。

そんな問答を繰り返していると「親が教育ママで、娯楽に触れられなかった。しかも幼いころからの家庭教師のトラウマがあった……。そこで出会ったのが、なんでも叶えてくれる夢の家庭教師・ドラえもんだった」とか、そんな自分の呪いに気づくわけだ。

意識的にはわからないことでも、無意識的に「推すべくして推した」ということが判明する。そして人が何かを推すとき、だいたいの場合は自分の人生におけるコンプがそこに寄与している。

三.五次ヲタ 〜推しの人生分析〜

推しと自分自身との分裂

こうして世の中のヲタは気が付いたら自分の内面に没入していく。ハード面から入ったのに、気づいたらゲロゲロに内面の精神世界に溺れていくわけだ。

すると我が人体を支配する片割れ。つまり「推しの人生哲学」も気になって仕方ない。「ドラえもんって、大量生産の工場のなかでもダメダメだったから(そこがかわいいんだけど)、絶対コンプ持ってるはず。あの子、耳無くして好きな子にいじられてガチ凹みしてたからな。容姿にもコンプありそう。野比がちょっといじったらガチギレするときあるしな。いまだにネズミ克服できないしな……」とか、特に二次元キャラの場合は、もう完全に妄想が止まらなくなるに違いない。

ちなみにこの後は、作者である藤子不二雄の人生まで振り返るようになる。「まんが道」を爆速で買い上げたり「トキワ荘の青春」を観まくったりして、藤子不二雄の青春を分析し始めるわけだ。

四次ヲタ 〜推しからの卒業〜

推しとの思い出

とまぁ、まさに現実と虚構の境界線、三.五次ヲタについても触れたわけだが、ちょっと三次ヲタに話を戻そう。

実はこの三次ヲタの段階、つまり「己の半生を見つめ直す」という行為によって、およそ50%がヲタを卒業する。というのも「自分がなぜそれにハマったのか」と冷静になって無意識下まで掘って考える。それは自分にかかった呪いを自覚してしまうということだ。

これは現代のカウンセリングでも使われているフロイトの精神分析理論に近い。

精神分析理論

人間の精神というのは大部分を無意識が占めていて、その無意識に自我と超自我とイドがある。カウンセリングで意識できているところだけを見つめ直して整理したとしても、それは氷山の一角だよ〜ってやつだ。無意識を意識化することで、根治につながるんだよ〜っていう。

そう。自分の意識をふかぼって無意識領域まで考察する三次ヲタになると、自分がドラえもんに囚われている理由がわかってしまうのである。ここで「あれ? 俺、人生もったいないんじゃないか」と我に返ってしまう人が半分ほどいる。

ただもう半分は自分の呪いの根源に気づいたうえで「ドラえもん…‥一生ついていくよ……」ってなる。呪いを「祝い」として捉えて、人生を豊かにするわけだ。

「ハマれない人」はまず身の回りのものを10秒見てみるのがおすすめ

まず、今持ってるスマホのデザインについて無理矢理に興味を持つ

と、今回は「人は文化的なものを推し、そして離れていくのか」についてがっつり深ぼってみた。実際はアレですけどね。三次ヲタの仙人クラスにいく人はほとんどいなくて、二〜二.五次ヲタくらいでみんなわちゃわちゃ楽しみまくるんですけどね。

ただ、この「創作物にハマる」ってのは、実はある程度の感受性が必要だったりする。感受性ってのは、自分の無意識領域に転がっているコンプレックスの量に比例するものだ。「コンプレックス」と書くとちょっとネガティブなイメージがあるが、もちろん「成功体験」とか、ポジティブな事象も含まれます。

だから、幼いころからノーコンプレックスでヘラヘラ生きてる人ほど「推しができにくい」。なぜなら何かに頼らなくても救われなくても生きていけるからである。だから、そもそも一次ヲタの「ビビッとくる感じ」が極端に少ないはずだ。

ただ「私、全然ハード面にビビッとこないけど、周りが推しの話ばっかりして楽しそうだから、無理矢理にでも推し活したい」って方は、まず日常のアレコレをじーっと10秒見ることをオススメする。

我々は普段膨大な創作物に囲まれながら生活をしているものだ。まず今これを読んでるスマホやタブレットやPCというプロダクトがある。で、その中にはたくさんアプリがあって、ブラウザにはバナーがあって、マスコットキャラがいる。コンビニに入れば商品パッケージがあり、広告があり、レジがあり、店員の制服がある。その全部が創作物である。でも普段私たちはもうプロダクトに見慣れてしまって何も感じない。

しかし、推し活をしたい人は、無理してそれを10秒眺めてみてほしい。で、もう無理やり想像してみてほしい。「なんでこの色なん?」とか「なんでこのフォントなん?」とか。無理矢理考えることで、それまで無視していたものにちょっと呪われる。それをアニメやマンガといったストーリー性のある創作物でやってみると、より呪われる可能性が高くなる。

この「無理矢理やる」ってのがポイントだ。全然好きじゃなくても無理するのが大事。ちなみに私は大学時代に無理してプリキュアの映画を一人で観に行った。両端が子ども連れでゲロ吐くくらい恥ずかしかったが、エンドロールでは泣いてた。そして、ここからテレ朝日曜朝8時30分アニメの歴史にハマり、フィギュアもマンガも買った。無理することで、自分を騙して「ビビビッ」を引き起こせるんです。これが推し活のスタートになるはずだ。

あゝ素晴らしいヲタライフ

私はヲタが大好きなんです。私自身、周りには何かしらを推してる奴が多い。前に記事にした「乃木坂の過激ファン」とか。

ヒプマイの入間銃兎を追ってるメガネフェチもいるし、シルバニアファミリー20棟くらい持ってる人もいるし、タバコの空き箱集めてるやつもいる。やつらの共通項として、全員がむちゃくちゃ楽しそうだ。二次ヲタのところで、みんなわちゃわちゃしている。

もう私はそんなヲタのマシンガントークを浴びるのが大好きでして、本当に人生楽しそうなんですよね。恋バナ聞いてるみたいな気持ちですよねもう。

あとやっぱり「数時間は語れる何かがある」ってやっぱり人として強い。その分、知識もついてくるわけだ。コミュニケーション能力と引き換えに幸福を得ていると思う。

はじめのカルチャーの話に戻るが、こうしたヲタと推しが「文化」を作るのである。美術も文学もマンガもアニメも……カルチャーの背景には、いろんなヲタの"熱"があるわけだ。

最後に繰り返しになるが、いま毎日「なぁんか何にもやる気出ない〜」つって、好きでもないYouTubeをBGM代わりに流している人にこそ、ぜひこの記事を読んで「推し」を、そして「文化」を見つけてほしい。

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