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【本要約】(難)小室直樹の学問と思想

2021/12/18

概論

機能と構造概論

一種の機能不全で自己崩壊する。

例えば、ここに食べ物を食べて排出する動物がいるとすれば、排出がうまくいかないと、糞づまりになって死んでしまう。自動車が走るのには、ガソリンを消費するわけだから、ガス欠になったら、やがて、その車は止まると予言できる。

目的があるけれども、その目的を自己矛盾によって果たすことができなくなっている。機能不全に陥っている。結果、自己矛盾の果てに崩壊するだろう。そういう構造の予言である。

目的、つまり「機能とは何なのか」ということ「その構造とは何なのか」ということ
機能が果たせないことによって、その構造がつぶれてしまう。

キャッシュレス・ソサエティ
先進資本主義諸国では、現金なき社会に移行しつつあるが、ソ連においては、状況はまったく逆だ。人々は「なるべく多くの現金を持ち歩くのが正しい」とされる。そして、どこかで何かの行列を見かけたら、まず並ぶのだ。「そこで何を売っているか」そんなことはどうでもよい。たくさんの人が並び、長い行列ができている以上、そこで売っているものは、所有する価値があるものに決まっているのだ。ソ連では、人々は、その商品が「必要だから買う」のではなく、「持つ価値があると思うから買う」のである。

ソ連経済の特色の一つは、日本の封建時代と同じように、「貨幣が一般性を有しない」というところにある。つまり、お金を持っていても「お金で必ずしも商品が買えるとは限らない」のである。商品が買えるかどうかは、運にかかっている。

マルクス主義は無神論であり、宗教を「アヘンである」とし「階級抑圧の手段である」として排撃している。

人間というのは自由なように見えるけれども、いろんなものに拘束されている。

1番人間を拘束している根本は、宗教である。

宗教とは、行動のパターンのことであって、各々の宗教によって、行動の在り方が決まっている。

その観点からすると、マルクス主義は、宗教としての側面を持つ。

システム概論

学問というのは、事実を事実として認め、前提から論理的に導けることを考え尽くすことである。学問の中心にはシステムがある。その思考のロジックを他の学問に応用する。物理学・経済学を社会科学に応用する。基礎となるロジックの面と、社会の現実的な問題を解明する応用面、両面に対して取り組む。

システムとは、多数の変数がお互いに複雑に結び付いている全体である。システムを多変数の相互関連モデルとして解く。数学の関数式であり、定数と変数からなる。

y = ax + b

関数式がいくつも連立方程式の形で並んでいる。この構造体の全体をシステムという。

自然科学は論理と数式によって解明できるが、人間世界・社会においても、一般均衡理論に基づいて、経済の市場のメカニズムで解明できる。

理論経済学の目標は、資本主義社会を解明することだ。

「効用がちょっとだけ増えたら、どうなるのか?」と考えるのが「限界効用」である。

水は、なぜ生命に欠かせないのに、値段が安いのか?
それは、たくさんあるからだ。
もしも砂漠の真ん中で、水が全くないところに一杯の水があったならば、その値打ちは千金にも変え難い。
では、その水を一杯飲んだあとの、次の一杯は?
これも貴重ではあるが、少し値打ちが下がる。
10杯も飲んだ後だと、もうあんまり飲めない。
まして、飲み切れないほど水があると、誰もコップ一杯の水を買おうとは思わない。

水は、総効用は高いのだけれど、限界効用はほとんどゼロ。だから値段が安い。つまりモノの値段は、総効用ではなく限界効用に比例して決まるのである。

「限界効用の考え方によって価格を説明したらうまくいく」というモデルである。

理論経済学の中心を形成している「一般均衡理論」は「限界効用」の発見によって創始された。

生産の一般均衡

このモデルでは生産者と消費者がいる。この2つの経済主体は行動様式が別々である。

消費者
自分の満足を最大化するように行動する。最大化するといっても、ほかの財を盗んで取ってくるわけにはいかないので、自分の持っていた余分な財を売ったお金で別の財を買う。
生産者 ( 企業 )
利潤を最大化するよう行動する。生産した財を市場価格で売却した総売上から、原材料などのコストを差し引いた差額が利潤である。買った財 ( 原料 ) から売る財 ( 生産物 ) がどれだけできるかは、企業の自由にはならず、技術的な制約によって決まっている。この制約の中で、利潤を最大化する。これが企業の行動様式である。

システム

すべてはシステム

すべてはシステムである。
人間もシステムである。
ひとりの人間は変数の集まったシステムである。

人間は主体であって人格を持っているのだが、人格それ自体がシステムで、たくさんの細かい変数からできている。意識できる部分も、できない部分もあわせて、いろいろな変数の集まりである。

集団もシステムである。
家族・学校・企業・地域・国など、社会におけるすべての集団は人間関係の束であって、システムである。

大きな社会システムは、小さなシステムに分かれていく。小さなシステムは、もっと小さなシステムに分かれていく。最後に、ひとりの人間になる。人間もシステムだから、また、細分化していく。

社会システムは、構造と機能が備わっている。

人間はシステムだけど、一人ひとりの人間には個性があって、人格がある。人間の違いは、変数と変数の結び付きの違いである。「寒いのが苦手、寒いのが得意」といった違いである。

構造とは、変数間の関連性である。

「構造がシステムに個性を与えている」と考える。個人だけではなく、集団や社会全体に対しても「同様である」と見なす。システムには個性がある。変数間には安定したパターンがある。これを構造という。

機能とは、構造を維持するはたらきである。

どんなシステムでも、そのシステムの維持存続を目的として活動している。例えば、人間は自己保存のために生きている。機能とは、システムが自分を維持するための条件を示すモノである。

均衡は最も望ましい状態かもしれないが、あくまで条件である。条件が満たさなければ均衡は成り立たない。

エートス

構造 - 機能分析との関係で言うと、マックス・ヴェーバーで最も重要なのは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の議論である。そこにはプロテスタントのエートス ( 行動様式 ) 論がある。

・エートスは「人間がどのように行動するか」という行動のパターンである。
・エートスは、個人の特性を形作っている。

この特性は、多くの人々に共通している歴史的産物であり「ある社会の社会構造」「社会システムの在り方」ともつながるものである。「パーソナリティ・システム = 個々人」と「社会システム = 社会全体」とをつなぐ、非常に重要なキー概念になっている。これは、経済学の例で言えば、価格にあたるような、社会全体の重要なキー概念という意味だ。

そしてこれが、構造にも関係する。

①エートスはどんな社会にもあるが、滅多なことでは変化しない。
②ただし、これは歴史的なものなので、条件次第では変化することもある。
③そういった変化が、ただ一度、宗教改革によって、カルヴァン派の人々の間で起こった。
④そして、このエートスの変化が、それまで不可能であった近代資本主義社会を成立させた。

人類学では「構造は変化しない」ことになっている。しかし、ヴェーバーのように構造を解釈するならば、「歴史的な必然があれば構造変動が起こる」という論理が成立する。

構造が変化してしまった場合に、人間は、どのような深刻な影響を受けるのか?

この影響は、無規範状態 ( アノミー ) である。

・アノミーは、一人ひとりの個人に変化を引き起こし、さらには、社会構造を崩壊させていく。
・アノミーは、人々の気持ちがバラバラになった社会である。
アノミー
時代が急激に変化すると、変化に対応できない秩序が部分的に崩れる。
それに伴い、様々な無軌道の社会事件が次々に起きる状態のことである。

構造 - 機能分析

小室直樹の構造 - 機能分析に対する理解

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※本書より引用

①社会を「変数の塊である」と考える。そこには、いろいろな変数が見出される。これはシステム論だから当然である。

②その変数は「お互いにバラバラに動くのではなくて、さまざまな制約条件の下に動いている」と考える。この制約は関数関係なのだが、この関数には何本もある。象徴的な意味で「変数がn個あれば、関数もn本ある」と考えなければならない。それで、連立方程式が解けて「それぞれの変数が特定の値をとるようになっている」と考える。

③この関数関係のことを「構造」と考える。変数と変数を結びつける制約を全て「構造」という。この構造を所与とした場合に、変数の値が決まることを「均衡」と理解する。

・この構造は「さし当たり安定だ」と考えられる。しかし、これは「普遍」ではない。
・これも「一定の条件下で変動していく」と考える。
・構造が「変動するかしないか」を決める条件として「機能」を考える。

④この構造の下で変数の値が決まると、その変数の値がさらに「機能的に評価される」と考える。「システムはいつでも機能的に評価されている」と考える。

⑤そして最後に「システムの機能が十分達成されていない場合に、構造が変動する」と考える。

構造 - 機能分析とは、どういう論理なのか?

それは「社会の構造変動を、機能の観点から説明する学問である」と定式化した。

①社会には、構造があり、変動する。
②「変動するかどうか」は「何かある機能を考える」ならば、説明できる。

システムと言った場合に、その変数の結びつき方を具体的に示し、対象の個性を理論に盛り込まなければ、具体的・経験的な現象を切り分けていくことはできない。

そこで「構造をどのように記述するか」「対象であるシステムの個性をどのように取り出すか」という点が重要になる。どこの国にも人間はいるし、組織はあるし、家族はある。しかし、その構造が異なる。そこをうまく記述する必要がある。

次に、その社会の構造の安定性を保証している特別な変数、それは、例えば「生活水準なのか」「心理的な満足なのか」「宗教的な一体感なのか」とにかく、その社会の構造の安定に寄与している変数をうまく見つける。これが重要だ。

変数が見つかれば、それが定義上、機能である。その社会システムが備えている機能評価関数である。その変数の値 ( 機能達成の度合い ) が下がってしまえば、構造がガタガタと動き出してしまい、「その社会は別のものになってしまう」という予測がたつ。これが構造 - 機能分析の論理なのだ。

機能評価関数
個人の効用と同じように、社会システムも、「機能をどの程度達成しているか、評価されているか」を示す。

■システムとモデルの違い

・モデルは、認識のための手段で、模型である。
現実をそのまま見ようにもあまりに複雑なので「どういうことが起こるのか」という本質がわからない。そこで、1番大事なところだけを取り出して、現実よりも一回り簡単な模型にしたものがモデルである。

・システムは、模型を作るための方針である。
1〜2の変数を取り出すのは余りにも単純だから止めて、なるべく多くの変数を取り出そう。これがシステム論である。そして、そのシステムの結び付きを構造といって、その構造が「どういう条件で変化するかを考えよう」とするのが構造 - 機能分析である。

日本社会

日本には、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教のような世界宗教が与える確固たる信仰や規範の枠組みはないが、それに相当する何かがある。その何かが「日本教」である。

「日本人はなぜ働くのか?」
「日本の資本主義を支えている勤労の行動様式は何か?」
労働そのものを神聖な義務と考える、日本独特の勤労観である。

世俗的な労働それ自体が、そのまま言うなれば宗教的な儀礼になっている。日本は宗教的には無縁であるかのように装っているが、行動様式にまで還元してみると極めて宗教的だ。宗教を人間の行動様式研究とするならば、宗教研究の成果はあらゆる社会に適用可能である。

日本社会の危機とは、企業や学校などの様々な組織が疑似共同体に転化してしまい、それが本来果たすべきであった機能を差し置いて、自己の存続を自己目的化していくというところにある。

田中角栄論

イギリスの最初の首相と言われるウォルポールは「賄賂を集めて議会を思いどおりに操った」という。今で言えば「腐敗と汚職の巨悪の政治家は、国家を繁栄させ、国民の暮しを豊かにした」となる。民主主義は「自由・平等の理念と共に、民衆が豊かである」ということのために存在する。

その優れた政治家を、一片の法律で裁くことができるのか?
民主体制・憲法体制の主要な構成要素である優れた政治家の活動が、一般国民を縛る法律で規制されてよいのか?

政治家あるいは権力の中枢にいる人の政治的責任の問題が「法律上の罪に問われ得るのかどうか」という大きな問題を提起した。

日本人にとって「政治責任」と「刑事上の責任」とが非常に曖昧になっているが、本来この二つは違うものである。

もし、この二つをごっちゃにするとどうなるか?

刑事上有罪である政治家の責任は追及していい。
刑事上有罪でない政治家の責任は追及できない。

「国民が政治家を追及する」のは「検察当局が容疑者を追及する」論理とは、自ずから異なるわけで、この二つは全く別な次元にある。

刑事上の責任を問えない政治家の政治責任を、国民は国会等を通じて追及していい。
「刑事上責任がある政治家の責任をあえて追及しない」という選択、一種の指揮権を国民の名の下に発動してもかまわない。

アメリカの国家体制

アメリカは、ある理念を実現するために作られた、人造的な国家である。

では、その理念とは何か。

それは、自由である。

自由は、アメリカ人が「自分の命より大事である」と考えている価値であって、もし、この自由が失われるならば、アメリカはアメリカたり得ない。ゆえに、自由の名の下に「自由を守るために、アメリカ国民は、命を投げ打って戦う」という構造になっているわけだ。

この自由は、もちろん個人の自由なのだが、その最も根本になるのは宗教の自由、信教の自由だ。

昔、ピューリタンたちが信教の自由を求めて、新天地アメリカに渡って来たことは、私たちは知識として知っているが、それが今に至るもアメリカの原点なのである。この信教の自由は「思想の自由」「良心の自由」「言論の自由」と名前を変えた。そして、その上に、人々は、アメリカという、自由を実現するための政治的な枠組み = 制度 = 国家を作った。

アメリカの考え方によれば「国家は、天然・自然にあるものではなく、人民が、自分たちの自由を実現するために、自分たちの意思で作り出すもの」すなわち「契約」である。「契約」という考え方は、古くは旧約聖書の中にあるが、それをアメリカ人たちはプロテスタント、ピューリタンの思想を経て、現代に蘇らせた。

アメリカという新天地に「信教の自由の天地を、神への信仰に生きる自分たちの共同体を、作る契約を結ぼう」という宗教的な動機付けから、すべて出発した。

この契約を成文化したのが憲法で、そこには、国家と人民との関係が謳われている。国家は人民の信教の自由を保障する。一方、人民は、国家のために自分のなし得ることをする。税金を払い、兵役の義務に就き、国家を作り出すための選挙や様々な活動を行なう。こういった基本的な国家のあり方が書いてあるのが、アメリカ合衆国憲法である。これは、彼らの世俗的な制度であるが、その裏には深い宗教的な動機があって、アメリカ人にとっては非常に神聖なものである。だから、大統領の職務も、星条旗も、同様に神聖なものなのだ。

日本人の感覚から見ると、アメリカは一種の宗教国家、イデオロギー国家である。アメリカ人は、このアメリカの自由主義の体制こそが、あらゆる社会の中で最善である、ヨーロッパの旧世界よりも、ソビエトの共産主義よりも、日本や中国のシステムよりも、ずっと価値があるものであると、自信とプライドを持っている。これが「アメリカ人の発想の基本であり、行動様式の基本である」と理解するべきだ。

アメリカの信仰の自由、思想・信条の自由は、経済的な自由主義と結びついた。

それは、他人に迷惑をかけなければ「自由に結社を作って経済活動を営んでもいい」という自由でもある。この結社とは具体的に言えば、株式会社を意味する。そして、契約によって人々の労働力を雇い入れ、自由に産業を起こす。豊かな資源の上に、自由な労働力が現れ、全く封建主義の制約のないアメリカにおいて近代資本主義が花開き、今日の世界最大の国家としての礎を築いた。

このようにアメリカの自由主義こそが、19世紀から20世紀にかけての世界の体制を形作る最も根本的な思想である。

自由

liberty ( リバティ )
freedom ( フリーダム )

リバティは「自由、勝手気まま」という意味で、ヨーロッパの貴族たちの、自由で勝手気ままな振る舞いが起源である。

フリーダムは、 kingdom ( キングダム )「王国」という語と対比させる。free ( フリー )、自分たちは、ヨーロッパの圧政と宗教上の迫害から逃れてこの自由の地にやって来た。ここで、自分の信仰を守り、自分の魂と精神の自由を命を懸けて守る「心の王国」という意味がフリーダムの起源である。

日本教の社会学

日本においての機能集団である学校・企業・官庁は、本来、何かの機能を果たすべき存在である。しかし「機能集団」なのに、そのまま「運命共同体」になってしまっている。

機能集団が「共同体」「人々の生きる目的」になるところに、日本教の本質がある。

共同体になれば、それは、神聖な対象・忠誠の対象・信仰の対象・宗教的な信念の拠りどころになる。その独特な行動様式を持っているものを「日本教」と考える。

社会を社会ならしめているものは3つある。

・行動様式 ( エートス )
その社会を支配して、その社会に所属する人間たちが、自ずと行動してしまう内面の規範である。
・社会行動論・社会構造分析
行動様式は、その社会構造を貫くものである。
・宗教
東アジアの儒教や、日本の社会を分析する場合、行動様式は、宗教に帰結する。

「日本の社会を、日本教という一種の宗教によって規律される社会である」と捉えることが可能になる。

空気の研究

①「空気」とは、その場の雰囲気のことである。
②日本では、原理・原則によって意思決定がなされたり、企業の行動が決まったりするのではない。
③その場の「空気」〜 誰がいてどういう事態であるかという状況 〜 に依存しながら、全てが決められる。

日本社会では「空気」を上回る決定の原理・原則がない。

つまり「空気」は絶対のものとなる。

「あのときは、ああいう空気だったのだから、仕方がなかった」というふうに、どんな誤った決定もそれなりに正当化されていく。また、空気、風向きが変われば、全然、別の決定もなされるかもしれない。日本の組織は、本来そういうものなのだ。そういう意味で「空気」と呼ばれているものは、日本の組織を支配する目に見えない絶対的な力で、誰もそれに抗うことはできない。

日本では、本来機能的に動くべき様々な集団からなる社会が、いつのまにか誰一人として意図せざる方向へ動いていってしまう。こういう現象を指して「空気」と言った。これは日本教を奉ずる日本型の社会の中で、しばしば起こりうる現象である。

危機の構造

日本社会の特徴のひとつを「限界差別の法則」という言葉で表現する。

日本では、連続的な階層という特徴があって「一体、自分がどこの階層に属するか」が明確ではない。欧米に見られるような階層ごとの団結が不可能である。

自分が「労働者階級なのか」「ブルジョワ階級に所属するのか」分からない。みんな、なんとなく中流で一般国民で、しかも「それで幸せだ」と感じている。このように、誰もが「自分より少し下の階層の人よりましだ」と考えて満足することを「限界差別の法則」と定義付ける。

日本資本主義の特徴は、限界差別の法則によって、制限されている。その制限とは、自らの生活の利益を国家に対して主張していくことだ。

明治天皇と日本近代

日本の近代化は、天皇の名によって、成し遂げられた。

国家の名の下に、明治天皇制の絶対主義が登場した。
天皇の名の下に、近代的な国家の枠組みが作られた。
兵士として、産業戦士として、日本人の人的・物的資源を動員し、戦争を主宰していった。

この天皇が、世俗的な君主と違うところは、天皇は神の子孫であるとされ、宗教的な存在でもあったことだ。ここが、キリスト教社会と似ているようで違う、日本的な特徴である。

現人神 ( 即ち、人間にして神であるという原理 ) を、日本社会の自己主張のために最大限に展開したのが、昭和の天皇制であった。昭和天皇の名の下に、アメリカに対する、そしてヨーロッパ文明に対する自己主張がなされた。

日本国の精神的な構造を作ってきた天皇制は、敗戦と共にいったん崩壊した。

前期昭和天皇制が、神として宗教的倫理の領域にまで上昇して、価値の絶対的実体として超出しながら同時に、温情に溢れた最大最高の家父として、人間の情緒の世界に内在し、日常的親密をもって君臨していた。

天皇が、敗戦によって「人間宣言」をした。
日本国家体制の根本規範そのものを否定することになった。
日本国民にとって秩序の全面的な崩壊であった。
戦後の日本社会を特徴づける急性アノミー現象が出現した。

急性アノミー
人々が信じていた行動の規準が破壊され否定されることによって、その人の行動が原則を持たないものになり、心理的にも非常に不安定な状態になる急性症状のことである。

ソ連でのスターリン批判によって、ソビエト国民はそれまで抱いていた、祖国と社会主義の理想の英雄スターリンへの崇拝の念を打ち砕かれた。ソビエトのアノミーと、天皇の人間宣言に始まる日本の戦後アノミーは同型である。しかし、その帰結が違う。

スターリンの共産主義体制では、政治と経済が一致していた。政経一致の体制では、スターリン批判が即経済システムの崩壊につながる。闇の経済が支配して、社会主義経済が崩壊するに至った。

日本では、政治と経済は分離していた。天皇が人間宣言をした結果、それまでの日本の政治的意思決定メカニズムは崩壊してしまった。しかし、経済は生き残った。むしろ、経済のみが生き残ってしまった。つまり、天皇の人間宣言の帰結が、戦後の日本人を作った。これはアノミーそのものである。

政治と経済が無関係であり、政治と軍事が無関係であり、天下国家とマイホームが無関係である。「隣の家と自分の家が無関係である」という感覚、私たちの国民的日常になってしまったこの感覚が、アノミーである。そして、私たちは、そのことに無自覚である。

戦前においては、天皇を中心とする神聖な秩序が、企業社会よりも上部にあった。しかし、天皇が人間宣言をした結果、企業の世俗的な秩序を超える神聖なものがなくなった。いわば、企業がそのまま神聖な忠誠の対象になった。人々は「企業に参加することによって救済されるであろう」という必死の思いで、企業にしがみついた。それが企業を運命共同体にしてしまった本当の力学である。

戦後社会において、日本教の論理、即ち「機能集団が共同体となってしまう」という論理が、貫徹されていく。これが、日本社会の現在であり、危機の構造である。

儒教

日本は、確かに儒教を尊敬している。しかしそれは、日本にとって都合のいいように誤解した上で、敬意を払ってきたにすぎない。日本人の感覚からすると、儒教は、「人間修養のためのマニュアルのようなものであり、思想・哲学書のようなものである。人間の理想状態を述べたものだから、現実と関係がなくてもよい。そして『理想状態=人間の平等で幸福な状態』を実現するためのものだろう。」と考える。しかし、これは、誤解である。

「儒教は人間に差別がある」という、差別観に立脚している思想である。統治者と非統治者は「人間として同列のものではない」という前提から出発する。

日本人は、儒教を日本流に読み変えることによって、日本に適用していった。

中国の皇帝は、日本の天皇と性質が異なる。
中国の官僚制や血縁集団 ( 宗族 ) は、日本には、決して見られない。
日本人が知っている共同体とは違ったものである。

儒教は、中国の文化や風土に根ざさなければ理解できないのだが、そのことに目をつぶって、日本人は、儒教を誤解し、中国を誤解し、その誤解に基づいて様々な戦争さえ起こした。

日本人は「長いこと自分たちも儒教の影響を強く受けてきた国民だ」と思ってきた。しかし、よくよく考えてみると、それは全然違う。

「君子」というのは「政治的支配層の人、統治者たるべき人」という意味である。
「君子の道」というのは「統治者として、とるべき行ない」ということだ。

日本では長年にわたって、『論語』読みの学者たちが、勝手に、人文教養的な、高潔者の風雅な生き方みたいに解釈して来た。自分たちの読み方が「日本教化した儒学である」ことに自覚がない。

小室直樹を貫く一筋の着想は「人間の発想と行動を捉えている根底的な要因は何か?」ということに対する追求である。
・その要因の在り方は、国ごと文化ごとに違う。
・ある国では、明示的に宗教であり、ある国では儒学であり、道徳である。
・日本では、日本教である。

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