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【本要約】日本教の社会学


2022/2/1

私たちは「 日本が普通の社会だ 」と思っているが、世界から見ると日本は異常な社会である。世界中のすべてにあり、日本にだけ存在しないものがある、宗教である。日本人はモノを考えるときに、論理で考えずに、感覚で捉える。日本教という宗教である。

日本の戦後

【 民主主義 】
・欧米
 責任者を明確にして、決断の主体を特定する
・日本
 決断の主体が誰だかわからなくして、決断の内容を分散する。
 責任者がいないから、誰も責任を取らない。

民主主義は、" 多数決 " だけど、日本人は「 決 」じゃない、" 多数意見無決 " である。

【 黒幕 】
・欧米
 陰から決定を操作する。
・日本
 決定そのものを操らずに、決定に至る空気を操作する。

日本では、満場一致に至る空気が必要になるから、根回しが、決定的な意味を持つ。

日本の文化

日本人は「 安全と水は、タダである 」と思っているように「 自由と平和も、タダである 」と考えている。

タダであるどころか「 自由であり、平和であれば、豊かだ 」と信じている。

本来、民主主義においては、自由は大変に高価なモノであるが、高いコストの代償としても、あがなう価値がある。

欧米の文化

■近代以前の社会

絶対的一神との契約が根本規範で、すべての法も根本規範に依拠する。
人間にとって、習慣・風俗・規範・法律・政治制度、社会一般は、神が作ったモノであって、「 人間の力によって変える 」という考えがない。

■近代社会

近代以前の社会の神との契約が、人間の間の契約に変わった。
法律・政治制度・社会もすべて人間が作ったものだから、変えることができる。
この根本になるのが契約である。
契約の更改の有無が、民主主義の前提となる。

自由

■江戸時代の自由の定義

不自由の解消こそが、不自由を感じない状態が、自由である。
「 世界も社会もすべての世の中を自然である 」と捉える。
自然に身を委ねて、少しも抵抗を感じない状態になっている。
人間にとっての自由である。
自分に不幸なこと・不可解なことが起こったら「 前世での因果だ 」と考える。
すべてを自分の心理的な問題として、解決してしまう。
この意識を持つことが、自由な状態である。

■欧米の自由の定義

リバティー
解放・免除
フリーダム
何かをする権利
フリー
ただ

訴訟を起こす権利がなかったら、自由民ではなく奴隷である。自由の1番基本的なものは、経済的自由、企業を興す自由である。契約をする権利であり、奴隷に契約の権利はない。奴隷と家畜は同じだから、誰とも契約できない。

ローマ時代の奴隷解放の手続き
①奴隷主が、神殿にお金を供託(デポジット)する。
②神殿が、人間の奴隷から神の奴隷へと契約を登記する。
③奴隷主が、神に奴隷を売る=供託したお金を受け取る。
④奴隷は神の奴隷となり、人間の奴隷ではなくなる。

神は無償で自分を解放してくれたから、自分は自由になった=神によって贖われた

すべては、契約が根本にある。

奴隷は売買の対象で、自由人は契約の対象である。
自由というのは、そもそも契約を前提としたコンセプトである。

アングロサクソンでは、相手の人格に対する言葉と、単なる情報に関する言葉を厳重に使い分けられている。同じような内容でも、ハッキリと線引きされている。

・相手に対して「 お前は嘘つきだ 」と言ったら、決闘になる。
・「 お前の言ったことは事実と違う 」と言えば、何でもない。相手は反論すればいい。
日本は、言葉に、人格と情報の分離がない。

言論の自由が成立するためには、言論は科学的でなければならない。科学は、弁証法に基づくから、「 科学的である 」というのは「 自分の所説は、ひとつの仮説に過ぎない 」ということだ。科学とは、仮説を立ててそれを証明する。その仮説を巡っての討論が必要となる。討論には、勝ち負けがあるが、負けたから怒るのも違う、勝ったから偉いわけでもない。

情報と感情、情報と人格は、明確に別モノである。

「 自分の言うことが、仮説に過ぎない 」ということは、実は、絶対神との契約という考え方の裏返しである、神との契約のみが絶対的なんだから、それ以外に絶対的なものはあり得ない。

神の言葉以外のものは仮説になる。

神学としての日本教

宗教とは
① 宗教とは、明治になってから作った日本語であり、元々、宗教という言葉はない。
② 宗教の本来の意味は、教義を継続的に再読することだ。

宗教を再読と考えれば、宗教のない世界はない、無神論者でも、本人が無意識でも、日本でも。キリスト教・仏教・イスラム教だけでなく、未開人が何かを拝んでいるアニミズムも、マルキシズムも、すべて宗教となる。

宗教とは、行動様式 ( エトス ) なので、日本人には、日本独特の行動様式がある、日本教がある。

旧約聖書にある「 他の何者も神とすべからず 」という言葉は「 他にある 」ということを前提にしている。」

なぜ、何者ではない神なのか?
・生ける唯一の契約の対象だから、他の神は生きていない非人格的なものだから。
・契約の対象として唯一であって、他の契約の対象としない存在だから。
・契約の対象にならないから、神とはいえない。

仏教は、悟るためのノウハウがあるだけで、そのノウハウを使って悟れない人は悟れない。だから、人々を救済することはできない。人々を救済する絶対的唯一神とは根本的に異なる。

救済
・ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の場合には、絶対的唯一神との契約を守ること
・仏教は悟りを開くこと
・儒教は良い政治をすること

日本人の素朴な宗教観は、死んだ後の面倒を見ることである。

明治以前に「 宗教 」という言葉なかったとき、仏教は仏法、儒教は儒学であり、教えではなかった。絶対的唯一神の契約とも違う。

宗教とは、特定の行動様式と、定義するしかない。
【 一神教の行動様式 】
① 聖書は「 人間は自然のままであると悪いことをしてしまう動物である 」と書いてある。
② 自然な人間をコントロールするのが神との契約である。
③ しかし、成り行きに任せると、人間は絶対に神との約束を守らない。
④ 神との約束が守れないならば、人間は滅ぼされる。
⑤ 自然に価値はなく、神が決めた不自然な契約に価値がある。
【 日本の行動様式 】
① 日本は不自然じゃいけない、自然でなければならない。
② 自由というのは自然の中に組み込まれている。
③ 自然が自由の象徴である。

「 宗教は、全部薬だから、うまく調合して、飲んでしまえばいい 」という日本独特の思想が、日本教である。

仏教・神道・儒教を、自分に一番効くように処方できる者が、賢者である。

薬なので、薬局にはたくさんの薬があった方がいい、誤用しなければ。

日本は、その調合を、政府が決めている。

日本教の教義

日本教を理解することは、日本を理解し、日本人を理解することである。

原則のないところが、日本教の日本たる由縁である。ところが宗教の原則は、教義である。

日本教の教義はないが、教義の機能を果たすものはあるはずで、それは何なのか?

「 空気 」である。

空気
① キリスト教が日本に輸入されると、その宗教本来の意味が骨抜きにされてしまう。
②「 骨を抜く 」というのは、日本に排除の原則がある。
③ 日本に原則があって、その原則に反するモノは全部骨抜きにされてしまう。
④ その原則とは「 空気 」である。
空気は
内容が一義的に明示されず、原則を有しない。
常に社会状況や人間関係にも依存している。

空気は、規範的に絶対である。
「 空気だ 」ということになれば、誰も反対できず、逆らうことはできない。
日本人は、空気の前では無力である。

空気は「 無条件にいかなる社会にも発生する 」というのではなしに、発生のための条件がいくつかある。

・まず、絶対的一神との契約という考え方がある社会では、絶対に「 空気 」は発生のしようがない。
その契約のみが規範性を有し、それ以外に規範はあり得ない。
この考え方をさらに広めると、模範的ルールが一意に、明示的に定められた社会にも、空気はあり得ない。
・次に、歴史という考え方のある社会でも「 空気 」は発生しない。
現在の「 空気 」によって善悪が決められても、いつそれが歴史によって覆るかわかない。
これが歯止めとなって「 空気 」の発生が抑えられるはずだ。
・日本で「 空気 」が発生しうるのは、" 規範が存在しない " のに加えて、" 歴史的時間 " という考え方もない。

日本では「 規範がなく、今だけがある 」から「 空気 」は教義になり得る。

・戦前は、自己規範と天皇の間の空気で、やってこれた。2つの軸だけは押さえていた。
・戦後は、自己の行動規範も何かわからない。何が絶対かもわからない。軸がなくなると空気だけになる。何をするにしても方法がなくなる。

例えば、日中復交のときに、新聞は、2軸を置く。中国は絶対善、日本軍を絶対悪として、対峙させる。この2軸の真ん中で、各人を拘束するものが、本来であれば、存在しなければならない。しかし、そこには、空気しかない。2軸が固定されないから、空気は、大きくなったり小さくなったり、あっちへ行ったりこっちへ行ったりする。「 規範のような体系性を持ち得ない 」という空気の特徴が鮮明になる。

規範のような体系性は、善悪の判定が明確にされることだ。
空気は、善悪を規定しないし、流動的である。
「 人はパンのみにて生きるにあらず 」
-
本来は「 人はパンのみに生きていないんだ 」という事実である。
日本では「 パンのみに生きちゃいけない、神の言葉によって生きなさい 」という規範的意味になる。
コレが空気の大事な点である。
「 空気がある 」ということは「 空気のようになりなさい 」という意味になってしまう。

実情

実情:偽らないおもい
① 日本教徒は、自分の父が羊を盗んでも「 確かに盗みました 」という事実を言ってはいけない。
② そのときの " 実情 " を言わなければならない。
③ だから、事実を事実のままにいう人間は嘘つきとなる。
④ 事実を " 実情 " にしていう人間が正直となる。
⑤ 父が羊を盗むと、子の情は「 ヤバイ 」となる。
⑥ これが " 実情 " で、その " 実情 " に正直に対応すれば「 盗んでいない 」となる。
⑦ " 実情 " を無視して「 確かに盗んだ 」と事実を言った人間は嘘つきとなる。
※ 孔子の言葉の捉え方である。

日本人の嘘つきの定義と、欧米人の嘘つきの定義は全然違う。
・欧米では「 事実 」と違うことをいう人が嘘つきである。
・日本でなら「 実情 」が「 事実 」と異なる場合には「 事実 」と違うことをいっても、嘘つきとは言われない。

だから、そのとき、事実をそのまま言った人間は徹底的に、非難される。
あいつは、嘘つきだとなる。

実体語と空体語

実体語:ホンネ
空体語:タテマエ

ホンネとタテマエは、バランスが必要で、実体語と空体語のバランスと置き換えられる。

日本教の基本的概念は人間と自然である。
① 自然の上に人間が立っている。
② 他の生物と人間の違いは「 人間は言葉を持っている 」という特徴である。
③ 人間 ( 日本人 ) は、言葉で教義を定めるのではなく、空気を醸成して、社会的に機能している。

空気を機能させている空体語が拡大しすぎると危険なので、一方に、実体語を置いてバランスを取る。

■太平洋戦争末期

「 無条件降伏 」という実体語があれば「 一億玉砕 」という空体語でバランスをとっているわけで、この空体語がないともう何も機能しない。ところが「 一億玉砕 」というのは極限である。これ以上もう空体語を積めなくなる。

そうすると、天秤の支点を移動させてバランスを取ろうとする。ところが、支点を限度まで動かしてもバランスが取れなければ、天秤は一回転して空体語も実体語もふり落とす、これが終戦である。

両方の言葉が落ちてしまう。だから「 一億玉砕 」という空体語もなくなる。それと同時に「 無条件降伏 」という実体語も落ちてしまうから、すべての言葉を失う。

下に自然があって、その上に人間という支柱があって、この支柱の上に天秤がある。片方に空体語を入れて、片方に実体語を入れて、バランスをとってる。

実体語のほうが重くなると、空体語のほうをどんどん増やす。だから、この表現はどんどん上がっていって、降伏直前には「 一億玉砕 」という極限まで上がっていく。これ以上重くできないとバランスが崩れて、実体語のほうが上がる。今度は、支点を空体語のほうに寄せていく。それも極限までくると、もうバランスが取れないから、一回転して両方落ちる。

そうすると、その次の瞬間は何もなくて、天秤の支点は真ん中にあって、実もなければ空もない状態で、突っ立つ人間がいるだけになる。

空体語と実体語がバランスをとって、人を社会的に機能させているのが、空気である。

空体語と実体語とが、うまくバランスしていれば、社会にひとつの空気が支配的となる。実体語が萎んでいくと、バランスを維持するために空体語を落とす必要がある。そうすると、空体語は軽くなって空気が沈静する。

日本教の救済儀礼

【 天地の始まり 】
・ユダヤ教、キリスト教
 神が創った
・日本
 神が産んだ
・中国
 いつのまにか始まっていた

【 一神教 】
・人間とは基本的に被造物であり、物質である。
・被造物である人間には、本来、自由意志はない。

宗教的指導者のラビ・アキバは、借金と解釈した。
① 神は無限に金を持っている銀行みたいに、無限に自由意志を持っていて、人間に貸してくれる。
② 自由意志を借りて持っている以上、人間は好きに使える。
③ ただし、借金には契約がある。 この契約が律法で、契約通りに使わないと、最後の清算の時に困る。
④ 人間は借りている自由意志があるから、今、自由意志がある。

創造と自由、被造物と自由の関係を捉えた。

日本教的ファンダメンタリズム ( 基本主義 )
① 戦後、アメリカ兵は、日本兵に対して、進化論を説明した。
② 日本兵は「 進化論を知っている 」と反論した。
③ アメリカ兵は「 日本人は『 現人神がサルの子孫だ 』と思っているのか 」と言った。
④ 日本兵は、指摘されて初めて、矛盾に気が付いた。

アメリカ兵にとっては「 天皇を現人神だ 」と言っている国には「 進化論があるはずがない 」というのが論理的帰結である。だから、日本兵に進化論を説明したのだ。進化論を信じるのならば、天皇が現人神であるはずがない。

「 天皇を現人神だ 」と信じながらも「 進化論も信じる 」という、矛盾を内包させるのが、日本教的ファンダメンタリズムである。

日本教的ファンダメンタリズムは空体語であり、機能的には、空気である。

日本資本主義の精神

「 産業革命における蒸気機関や織機といった技術が資本制社会を作った 」と考えている。しかし、原因と結果を取り違えている。

蒸気機関・鉄道の発明以前に資本制社会が成立し、商品の集積が流通し始めたため、馬車で運びきれなくなったからに他ならない。

資本制社会の要請から産業革命がスタートした。
技術は資本主義社会の推進力である
技術で資本主義社会が成立したわけではない。

【 近代資本制社会成立のための条件 】
① 勤労の行動様式の成立 ( 天職という思想 )
② 交換の規範化
③ 共同体の崩壊
④ 契約という考え方の確立 [ 日本人特有 ]

英米型の資本主義は、伝統主義的共同体の崩壊から始まったが、日本の資本主義は、伝統主義的共同体が再編されて企業の中へ取り込まれた。

広義の意味で言えば、日本は資本主義社会であるが、狭義の意味では、日本は資本主義ではない。広義と狭義の中間に挟まるのが「 日本的実情 」である。近代的合理化は、一部では的確に行われている。しかし、完全には合理化されず、そこに実情というものの媒介がある。

カルヴァンの予定調和説で決定的に重要なことは、神という絶対的な座標軸が社会から完全に分離されている。社会が相対化されている。だからこそ、絶対的原点に立てば、社会は何とでも自由に動かし得ることになる。この考え方があって初めて、伝統主義社会を変革して近代資本主義社会を作ることが可能になる。

神が絶対ということは、人間の関係が全部相対化することだ。

日本の場合は、それがないから、人間の関係が、絶対的なのか相対的なのかわからなくなる。

鈴木正三の「 すべての仕事は仏業の修行だ 」という思想からは、革命は起こらない。革命とは、現状の否定である。現実社会の外に絶対的視座を設定して、ここから、現実の社会を否定することができなければならない。

カルヴァンの予定調和説にあたる社会外の絶対的座標を、日本資本主義の誕生のために、日本社会に与えた思想は何なのか?

それは、崎門学である。朱子学のテーマは、正当性の問題、主権の正当性の問題であるが、崎門学は幕府の体制の根底を揺るがす。

日本では朝幕併存が伝統になっているので、中国の正統論は日本に通用しない。それなのに幕府は朱子学を官学とした。「 通用しない 」といったら矛盾してしまう。崎門学は、その矛盾を突いていく。そして、正統性を持っている唯一の支配者というのは天皇しかいなくなる。幕府という現存の秩序以外に、日本社会を超えた絶対的座標軸を設定した。

崎門学の行動様式は、幕末には、武士を超えて、一般的規範となって、農村まで浸透していた。農村の少年であった渋沢栄一は、天皇を絶対化することで、自己の規範を絶対化した。日本の国事に奔走した渋沢栄一は、日本資本主義の基礎を作った。渋沢栄一は幕末から明治への転換点にいたわけだが、その基本的発想はすべて、幕末の思想に基づいている。それを基軸として、西欧から輸入したものを編成している。ここに、明治以降の出発点となった日本がある。渋沢栄一の宗教は、日本教であり、日本教を新しい社会に適応していった。


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