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【本要約】人生の授業 〜 奴隷の哲学者エピクテトス


2022/5/10

自分の力の及ぶ範囲の区別
・自分次第であるもの
・自分次第でないもの

自分がどうにかできる問題には力を注ぎ、どうにもできないものは、放っておく。
人は得てして、自分ではどうにでもできないものに囚われてしまい、思い悩んでしまう。

エピクテトスは、ローマ時代のストア派を代表する哲学者である。ストア哲学は、論理学・自然学・倫理学を綜合した哲学体系を誇るヘレニズム哲学の主流である。

地位や財産や権力とは無縁な 平凡な市井の奴隷 が、いかにして真の自由を享受し、幸福な生活に預かることができるのか?

隷属と自由というのが、エピクテトスの課題である。

・何かに囚われて生きる
・何にも囚われずに自由に生きる

どちらが幸せか?

自由に生きる方が幸せなら、地位や名誉や財産に囚われていることは、不幸せということである。地位や名誉や財産は、自分でどうにかなるものではない。

地位や名誉や財産が、幸せの基準になっていたら、それらを得られないことで満たされず、得たら得たで奪われはしないかとビクビクし、結局、それらに囚われて生きることになってしまう。

自由に生きることが幸せなら、地位や名誉や財産など、自分次第でないものに目を向けてはいけない。

ストイックという言葉は、古代のストア派に由来する。本来の意味は「 自分の欲望にそのまま従うのではなく、意識して禁欲する、我慢する態度 」を指す。

ストア派の基本戦略は「 私たち次第であるもの 」「 私たち次第でないもの 」の境界を見極めて、前者の自分の裁量の範囲内にある物事にだけ、自分の欲望の対象を限定することにある。

エピクテトスが考える自由人
先入観や偏見に振り回されず、自分ができること、できないことを見定めて行動できる人

物事のうちには「 私たち次第であるもの 」と「 私たち次第でないもの 」との両者がある。

  • 判断・意欲・欲望・忌避など、私たちの心の働きによるものは「 私たち次第 」である。

  • 自分の身体や財産・他人からの評判・地位官職など、私たちの働きによらないものは「 私たち次第 」ではない。

「 私たち次第であるもの 」は本来、自由で、妨げられないし、他人から邪魔されない。だが、「 私たち次第でないもの 」は脆弱で、隷属的で、妨げられてしまうし、自分のものではない。

病気や死や貧乏も、自分の裁量の範囲外にある。
健康のために努力しても、避けられない病気もある。

・他人に何かを望むから、思い通りにならず悩み苦しむ。
・他人は自分のどうにかできるものではない。
・他人のやることは、自分でどうしようもできない。

他人からの評価や評判は、自分で自由に制御できることではない。

他人の評価を恐れず、自分自身の意志で生きることが、自由に生きる唯一の道である。

事実と評価を区別する。

事実は起こったことだが、事実の良し悪しは自分が評価することなのだ。

起こった事実は「 私たち次第でないもの 」であり、私たちはどうしようもできないが、事実をどう評価するかは「 私たち次第であるもの 」なのだ。

例え、自分の希望と違っていても、また、一見、悪いと思われる状況でも、それを良いことに解釈することは自分次第なのだ。

自分自身に起きた出来事を受け入れ、将来への不安や煩悶を一掃することは、究極の楽観に達することである。

過去にも未来にも欲望の目を向けることなく、現在の与えられた状況を見据えて、それを享受することが、正しい欲求の在り方である。

私たちの自由を縛るもの、それは、不健康な身体である。私たちは、普段、健康的な身体を意識していないだけだ。不健康、病気や怪我は、すべてのやる気スイッチをオフにする。エピクテトスは、自分のことを足の悪い老人と言っている。しかし、そんな不健康な状況でも、自分の意志だけは自由にできる。

感情は自分の考え方によって生じる。ストア哲学によれば、怒り・不安・悲しみといった負の感情に苛まれることが、不幸の最大の原因である。すべての苦しみの原因は自分自身なのだ。

  • 物事の価値判断をくだすのは、自分次第なのだ。

  • 感情に囚われた態度は、認識の誤りである。

負の感情から脱客する道は「 自分がどういう考え方をしているか 」という徹底した自己反省に求められる。

負の感情は、自分自身の感情でありながら、自分でコントロールすることは難しい。感情の手前には、判断がある。

負の感情とは、自分でも無意識に、自らの判断が作り出している。

現在の自分の視点を絶対視せずに「 他にも別の見方があるかもしれない 」と想像し検討してみる。

人は、他人に対しては正しい判断ができるのに、自分のことになるとできなくなってしまう。

自分が当事者になると、今の自分の視点からしか世界が見えなくなってしまう。物事を冷静に見つめることができず、怒りや悲しみといった感情が湧く。自分に関する出来事を、できるだけ他人のように捉えてみることだ。自分に起きた出来事を他人事のように考えると、感情の振れ幅は小さくなる。

私にとって心惹かれるもの、役に立つもの、愛着を寄せるものがあれば、これらが「 そもそもどのような性質のものか 」を、あえて口に出して言うようにする。自分が愛着を寄せているものが、いつまでもそのままであり続けることを願うのは、ごく自然な人情であるが、現実には形あるものは必ず壊れる。

所有しているものは、生まれてたときから、私が持っていたわけではなく、私の人生の過程で手に入れたものだ。初めから自分自身の外側にあるものだから、いつかは失う。

自分に起こることに対して、予め理不尽なことが起こる事を前提として、覚悟していれば、我慢することもできる。

・起こりうるリスクを想定して、その回避法を自然に準備しておく。
・想定外のことが起こったら、自分の想定した選定が間違っていたのだ。

他人からの評判を気にするあまり自分を見失うことなく、真に、自由でいられるためには、他人からではなく「 自分自身にそう思われればいい 」

他人がどういう思いで、その行動に至ったかを知らないで、誰かの善悪を判断することはできない。

  1. 私たちは、他人の行動の事実だけを捉えることだけしかできない。

  2. 私たちは、他人の行動の判断はできない。

  3. 私たちは、他人の動機や目的の意図がわからなければ、判断はできない。

他人と同じことをしないでいながら、同じものを要求することはできない。

不公平は、この世に存在しない。

不公平に感じたら、目に見えなくても、商品の売買のように、行為や恩義の相互交換が行われている。

無教養の者 → 他人を非難する
教養の初心者 → 自分を非難する
教養のできた者 → 他人をも自分をも非難しない。

ある出来事が「 幸か不幸か 」を決めるのは、客観的な事実の側ではなくて「 自分がそれをどう評価するか 」にかかっている。だが、大抵の人は知らないうちに価値判断を下している自分自身に気付かない。事態を冷静に眺めれば、単純に「 誰かが悪い 」とも言えないし、悪いのは、実は自分かもしれない。

教養のできた者は、他人の視点でもなく、自分の視点でもなく、第三者的な視点という達観した立場に立つ。

感情に囚われず、困難は困難として受け止めた上で、自分が持つ能力を見つめ直す機会とする。感情を制御するのは簡単ではない、常日頃から、自分の感情を、第三者のような目で観察する習慣を身に付ける。

記憶しておくがよい、君は演劇の俳優である。

奴隷は、自分の力で抜け出せない枠組みに囚われているから、奴隷から自由人になりたいと願うことは、叶わぬ想いを、ずっと抱き続けることになる。それよりも、奴隷という枠組みの中で、自分の裁量の範囲内で幸福を定義して、自分の力で叶えられる想いにすることで、豊かに暮らそう。


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