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食品の裏側

20240702

■添加物の情報公開
添加物の世界には、消費者には見えない、知らされていない「影」の部分がたくさんある。食品製造の「舞台裏」は、普通の消費者には知りようがない。どんな添加物がどの食品にどれほど使われているか、想像することさえできないのが現状である。
しかし、実際に食品を選ぶのは私たちである。それを口にするのは私たち消費者である。

「そんなふうにつくられているなら、食べたくない」
「高いお金を出しても、無添加のものがいい」
「安全性も大事だけど、やっぱり安いほうがいい」
「そもそも添加物に関心がないし、気にしない」

そのどれを選ぶかは、消費者の自由である。ただ、そのためには、まずは「事実」を知らないといけない。知らなければ判断のしようもない。にもかかわらず、現状では何も知らされていないし、何も知ることができない。

つくる人は食べる人の顔を思い浮かべ、あの人が食べるならと、無添加で安心・安全でおいしいものをつくるはずだ。食べる人もつくった人の顔を思い浮かべ、色が少々悪く、味が薄くても気にしないだろう。売る人もそれをきちんと説明するはずだ。
しかし、この「つくる人、売る人、食べる人」という「つながり」が、社会が発展し、産業が大きくなるにつれ、徐々に失われていく。仕事の分業化・専業化が進むと、つくる人の顔、売る人の顔、食べる人の顔がどんどん見えにくくなる。

いまのように、楽に簡単に食事ができるのは、それは添加物のおかげである。いつでもどこでも、手軽に空腹を満たすことができるのは、添加物あってのことである。もしこの世から添加物がなくなれば、食事をつくる時間と手間は何倍にもなるだろう。それにほとんどの食品が、値段が高くなり、見かけも悪くなり、長持ちもしなくなるはずだ。しかし、そんな便利さ・豊かさを支えるものには、「光」と同時に「影」もある。
毒性・危険性もさることながら、食や文化、そして心までをも壊してしまう力が添加物にはある。 添加物の「光」を享受するのであれば、そんな「影」の部分からも逃れることはできない。

食品添加物をはじめとする「食につい情報さえオープンにされていれば、何を選ぶかは消費者の自由である。しかし、現状ではそれができない。
「一流メーカーが、危ない添加物を食品に使っているわけがない」
「変なものが、コンビニで売られているはずがない」
そう信じて、膨大な添加物をとっている人がどれほど多いことだろうか。その「裏側」を知ると絶対に食べたくないと思う食品を何も知らずに食べている人が、いったいどれほどいるだろうか。
そこを私は問題にしたい。
ただ、では何も知らされていない消費者は完全に被害者かというと、必ずしもそうではないのである。安くて便利ならばと、なんの問題意識も持たずに食品を買う消費者の側にも責任はある。消費者が少しでも「安いもの」「便利なもの」「見かけがきれいなもの」を求めるからこそ、つくり手はそれに応じるしかないという現実もある。

子どもには、自分の食べるものを選ぶ権利がない。親の出したものをそのまま、なんの疑いもなく口に入れる。

ドロドロのクズ肉に添加物をじゃぶじゃぶ投入してつくったミートボールを、わが子が大喜びで食べていたという現実。
このミートボールは、それまでの私にとって誇りだった。
本来なら使い道がなく廃棄されるようなものが食品として生きるのだから、環境にもやさしいし、1円でも安いものを求める主婦にとっては救いの神だとさえ思っていた。
「食品添加物の神様」と言われるまで私が使った添加物は、国が認可したものばかりだから、食品産業の発展にも役立っているという自負もあった。
しかし、いまはっきりわかったのは、このミートボールは自分の子どもたちには食べてほしくないものだったということである。
そうだ、自分も、自分の家族も消費者だったのだ。
いままで自分は「つくる側」「売る側」の認識しかなかったけれども、自分は「買う側」の人間でもあるのだ。いまさらながらそう気づいたのである。

ハムなのになぜ「大豆たんぱく」「卵白」「乳たんぱく」が使われるのか。そういう「素朴な疑問」を持ってほしい。
「素朴な疑問」を持つことが添加物と向き合う最初の第一歩である。そして 「常識的」に食品添加物が大量に使われている加工食品。考えれば、「なんかヘンだわ、気持ちが悪い」と思うのではないだろうか。
表示を見て、そういうことを考えて買ってほしい。
「素朴な疑問」を持つことから、すべてが始まる。

①精製塩
海水から電気と膜を使って塩化ナトリウムだけを取り出したもの。塩化ナトリウムの純度が高く、それ以外の成分はほとんど除去されている。いままで一般的に使われていた食塩。

② 輸入塩
いわゆる岩塩や天日塩である。一部、海塩もありる。メキシコやオーストラリア、中国製が多い。

③再生加工塩
メキシコやオーストラリアなどから輸入された岩塩や天日塩などを、一度海水で溶かし、塩化マグネシウムなどを加えて再生加工したもの。

④自然海塩
海から直接くみ上げ、水分を蒸発させた塩。日本古来の塩のつくり方で、成分をまったく調整しない伝統的な塩。「自然海塩」と書かれている。

「たんぱく加水分解物」と「ブドウ糖果糖液糖」の2つは加工食品に添加されるものとして(国の添加物の分類とは関係なく)、子どもたちには与えたくない。
味覚が壊れていくこと、糖分をとりすぎるということも危惧するべきことだが、この2つのようなものが使われ、安易に食べ物がつくられ、与えられる。しかも、安くて手軽に手に入るそう子どもたちが思ってしまうことが怖い。
体をつくる食べ物は、こんなに簡単で単純で安くはないはずだ。
一度の食事が、食べるのは一瞬でも、どれだけの手間がかかるのかを、子どもたちに教えなければいけない。手間のかかる食事は、子どもの「体」だけではなく「心」をつくることを知ってほしい。

これほど食品添加物が蔓延している世の中では、私たちの食生活から添加物を「ゼロ」にするのは、現実問題として不可能である。私たちの食生活において、添加物を使ってつくられる加工食品への依存度は、近年ますます高くなる一方なのは誰も否定できない。だから、もし添加物がいやなら、それこそ無人島にでも行って自給自足するしかない。

戦後、これだけ食生活が豊かになり、いつでもどこでも食べたいものが手に入るという「便利さ」が享受できるようになったのは、加工食品の発達があったからこそ。そして、その加工食品を支えているものそれは食品添加物にほかならない。もちろん、「使いすぎ」は問題だが、「食品添加物=害悪」と一刀両断するだけでは、何も問題は解決しない。

「台所にないもの」が入っていない食品を選ぶだけで、随分、添加物の少ない食品を選ぶことができる。もちろん「台所にないもの」がまったく入っていない食品を探すのはなかなか困難である。ゼロにするのは無理といっていい。だけど、「台所にないもの」の数が少ない食品をなるべく選ぶというのならできるはずだ。

「加工度の高いものは絶対に使うな」ということではない。できるだけ手づくりを心がけ、どうしてもというときだけ使うというようにする。
手間をとるか、添加物をとるかそれを心に留めておく。
加工度が高くなればなるほど、添加物は多くなる。「光」が強ければ強いほど、「影」も深いのだということを、くれぐれも忘れないようにする。

「裏」の表示をよく見て買い、自分の食べるも
の、あるいは家族に食べさせるものに、どんな添加物が入っているかを、「知って」食べる。

表示を見れば、それだけで何種類かの添加物をとってしまうことがわかる。その事実をきちんと「知る」だけでも、全然違う。
「ごめんね。お母さん、今日は忙しくてこういうのを使っちゃった。お母さんも見たこともないカタカナの入ったものを、あなたたちに食べさせてしまった」
何を食べたかを「知る」ことによって、そういう「反省」の気持ちが生まれるはずだ。
「反省」の気持ちにも3つある。
ひとつは「手抜きをしてごめんね」という気持ち、もうひとつは「添加物を食べさせてしまってごめんね」という気持ち、そして「食べ物の尊さに触れさせなくてごめんね」という気持ちその3つである。
そんな3つの「ごめんなさい」の気持ちがあれば、次は「手づくりのものを食べよう」という気持ちになるのではないか。
このご時世に、加工食品に一切頼らず、すべてを手づくりするのは、困難だ。時々はそういうものを使うのは仕方のないことだ。
週に3日、加工食品の日があってもいい。
それでも、もし自分が何を食べているかを「知っていれば、そこからきっと家族や自分自身に対する「ごめんなさい」の気持ちが生まれるはずだ。
こまかい毒性や危険性まで知らなくても、ただ、自分が今日家族に出した、今日自分が口にした加工食品には添加物が入っていることを「知っていれば、必ず「手づくり」の反動が来るのではないか。

ほかの食品と比べて値段の安いもの、便利だなと思うものには、必ず理由がある。そしてその答えは、「裏」 にちゃんと書いてある。

安易に加工食品に頼ってしまうことの危険性は、味覚の問題だけではない。加工食品は子どもたちに、「食とはこんなに簡単に手に入るものだ」と思わせてしまう。なんでもかんでも食べたいときに食べたいものが好きなだけ手に入る、そこには食に対する「感謝」の気持ちが生まれるはずはない。

食べるということは、「命をいただく」行為である。私たちはほかの生命体の命をいただいて生きている。

子どもには、まず日常いただく食べ物から、感謝の心を教えていってほしい。
日本語には「いただきます」というすばらしい言葉がある。これは「動物や植物の命をいただきます」ということである。
その言葉の意味をちゃんと伝えれば、「食べ残しちゃだめよ」などと言わなくても、おのずと食べ物を大事にし、食べ物に対して感謝の心を持てると思う。

「家族に経済的な苦労をさせないのが親父の甲斐性だ」そのように思い込んでいたけれど、いま思えば「豊かさ」というものの本質を履き違えていただけだった。いまは家事も積極的にこなしている。 妻にも仕事があるから、家事は共同作業。 「協力」ではなく「共同」で行っている。

自分の年老いた両親に、はじめての子どもの離乳食に、自分のつくっているものを自信を持って食べさせることができる―そんな「まごころ基準」がいま求められているのではないのか。

添加物をはずすなら、はずした分だけ、手間と工夫と知恵が必要になる。添加物を使わずに食品をつくれば、手のかけ方、熟練した経験、職人としてのカンなどによって、まちまちな味になる。それをおいしいものに仕上げていく。









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