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僕はイエローでホワイトで、ちょっとブルー

20240606

私が勤めていた所は失業率と貧困率が非常に高い地域の慈善施設の中にあり、DV、依存性などの問題を抱えた家庭の子どもが多く通っていた。
彼らは表情に乏しかったり、うまく感情を伝えられないことが多かった。他人に自分の感情を伝えられない子どもは、他人の感情を読み取ることもできない。他者がつらそうな顔をしていたり、嫌がって泣き始めても、それが彼らに痛みを与えている自分に対する「ストップ」のサインなのだとわからない。問題行動が見られる子どもはこうしたコミュニケーション面での発育が不十分な場合が多い。

頭が悪いってことと無知ってことは違うから。知らないことは、知るときが来れば、その人は無知でなくなる。

自分たちが正しいと集団で思い込むと、人間はクレイジーになる。

多様性ってやつは物事をややこしくするし、喧嘩や衝突が絶えないし、そりゃない方が楽だけど、楽ばっかりしてると、無知になるから、多様性が必要なんだ。

「僕は、イングリッシュで、ブリティッシュで、ヨーロピアンです。複数のアイデンティティを持っています。どれか一つということではない。それなら全部書けと言われるなら、『イングリッシュ&ブリティッシュ&ヨーロピアン・ヴァリュー』とでもしますか。無理やりどれか一つを選べという風潮が、ここ数年、なんだか強くなっていますが、それは物事を悪くしているとしか僕には思えません」
「よく考えてみれば、誰だってアイデンティティが一つしかないってことはないはずなんですよ」
どれか一つを選べとか、そのうちのどれを名乗ったかでやたら揉めたりする世の中になってきたのは確かである。
分断とは、そのどれか一つを他者の身にまとわせ、自分のほうが上にいるのだと思えるアイデンティティを選んで身にまとうときに起こるものなのかもしれない。

「人種差別は違法だけど、貧乏な人や恵まれない人は差別しても合法なんて、おかしくないかな。そんなの、本当に正しいのかな?」
「いや、法は正しいってのがそもそも違うと思うよ。法は世の中をうまく回していくためのものだから、必ずしも正しいわけじゃない。でも、法からはみ出すと将来的に困るから、それで罰を重くしたんじゃないかな」
「それじゃまるで犬のしつけみたいじゃないか」

シンパシー(sympathy)

  1. 誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと

  2. ある考え、理念、組織などへの支持や同意を示す行為

  3. 同じような意見や関心を持っている人々の間の友情や理解

エンパシー (empathy)
他人の感情や経験などを理解する能力

シンパシーのほうは「感情や行為や理解」なの
だが、エンパシーのほうは「能力」なのである。

シンパシーは、かわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出て来る。
だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。
シンパシーは感情的状態、エンパシーは知的作業とも言えるかもしれない。

「小さな政府」という言葉を政治について議論する人々はよく使う。が、現実問題として政府があまりに小さくなると、「恵まれない人に同情するならあなたがお金を出しなさい。そうしないのなら見捨てて、そのことに対する罪悪感とともに生きていきなさい」みたいな、福祉までもが自己責任で各自それぞれやりなさいという状況になるのだ。

子どもはゲンキンなものである。
あれほどW杯の日本代表チームに熱狂していた息子が、日本が敗退するとあっさりイングランド代表チームに乗り換えた。
応援するチームが複数あるのは幸運なことだが、なるほど多様性の強さってのはこんなところにあるのかと思う。こっちがダメならあっちがある、のオルタナティヴが存在するからだ。こっちしか存在しない世界は、こっちがダメならもう全滅するしかない。

英国では、授業でFGM ( 女性器切除 ) を教える、該当する地域から来た移民の生徒だけではなく、全生徒の前でだ。当事者は他人には言わないケースが多いので、周囲の人々が「心配」を報告してFGMを「予防」するために一役買わねばならないからだ。教えなければ波風は立たない。が、この国の教育はあえて波風を立ててでも少数の少女たちを保護することを選ぶ。そして、こうやって波風が立ってしまった日常を体験することも、様々な文化や慣習を持つ人々が存在する国で生きていくための訓練の一つなのだろうか。

息子はまったく日本語ができないし、親父もまったく英語が喋れないのに、なぜかコミュニケーションが取れているという不可思議な二人である。
彼らは一緒に魚釣りに行ったり、ソフトバンクホークスの試合を見に行ったり、ゲーセンにUFOキャッチャーをしに行ったりして楽しく過ごす。
なぜ言葉の通じない者同士がそんなことができるのかというと、彼らは、言語的に互いに迎合しようとしていないからかもしれない。人と人とのコミュニケーションには、意外と言語はそんなに重要ではないのかもしれないと思ってしまうほど、彼らは気が合う。

PM2.5が飛んでいることより、日本経済が中国に抜かれることより、自分が生まれた国の人が言った言葉を息子に訳してあげられないことのほうが、私にはよっぽど悲しかった。

幼児たちの世界はなんとカラフルで自由だったことだろう。子どもたちには「こうでなくちゃいけない」の鋳型がなかった。男と女、夫婦、親子、家庭。「この形がふつう」とか「これはおかしい」の概念や、もっと言えば「この形は自分は嫌いだ」みたいな好き嫌いの嗜好性さえなかった。そうしたものは、成長するとともに何処からか、誰かからの影響が入ってきて形成されるものであり、小さな子どもにはそんなものはない。あるものを、あるがままに受容する。 幼児は禅の心を持つアナキストだ。
しかし、成長するに従って、子どもたちも社会にはいろいろな鋳型があることに気づく。あれほど自由だった、というか世の中のあれこれに無頓着だった朗らかな存在ではいられなくなる。

移民にしても、全員が英国の教育や考え方に賛同するからこの国に来ているわけではないのである。中学校で行われているライフスキルの授業には、それぞれの出身国や宗教的な考え方から気分を害する移民の親がいるのは想像がつくし、「学校で教えていることは間違っている」と子どもに言っている保護者もいるかもしれない。

「ひどいことを言われた黒人の子は、いじめに参加してない。やっているのはみんな、何も言われたことも、されたこともない、関係ない子たちだよ。それが一番気持ち悪い」
「人間って、よってたかって人をいじめるのが好きだからね」
「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。罰するのが好きなんだ」

私はこの界隈で暮らしている東洋人に対する帰属意識を持っているのだ。しかも、同じように差別された経験をもっていれば持っているだけ、無意識のうちにもこの「仲間感」は強くなる。人種差別というものは、他人に嫌な思いをさせたり、悲しい思いをさせるものだが、それだけではない。「チンキー」とか「ニーハオ」とかレッテルを貼ることで、貼られた人たちを特定のグループに所属している気分にさせ、怒りや「仲間感」で帰属意識を強め、社会を分裂させることにも繋がるものなのだ。








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